●『群れは意識をもつ』(郡司ペギオ-幸夫)、第五章のメモ。五章は全体のまとめになっている。
●この本を読んでいる時にずっと頭にあったのはやはり『魂と体、脳』(西川アサキ)で、双方とも不確実性の中心(この言葉は『魂と…』のものだけど)にこそ意識が宿るという感じは共通しているけど、『群れは…』における「群れ」のシミュレーションでは、相互予期が「場の空気」のようなもの(「過去の履歴」もあるけど)によって可能だという前提になっていて、一方『魂と…』の方のモナドのシミュレーションでは、各エージェントは相手の手の内を読むことが出来なくて、その代わりとして、いつ終わるか分からない---分母の揃わない---会話が設定されていた(逆に言えば、噂話---相互予期が不十分であること---によって空気が形成される)。そして、前者だと中枢は必要ないけど、後者だと中枢が生まれることになる。もちろん、この二つのシミュレーションはいろいろ違う(なにしろ、前者は---常に一対一で---「交換」を行うけど、後者はただ、複数の相手の出方を見つつ「移動」するのみ)ので簡単には比較できないのだけど。この、微妙な設定の違いによる結果の違い(中枢の有無)はけっこう重要であるように思う。
●この本では、能動的受動者と受動的能動者(その役割の入れ替わり)によって、他者との関係の非対称性=時間の非同期性が組み込まれているのだけど、『魂と…』では、誰も自分の背中が見えないこと(互いに互いの背中の位置を取り合う形で相互観照する)によって非対称、非同期が組み込まれていた。この設定の違いも重要だと思う。前者が時間的非対称で、後者が空間的非対称と言えるかも。
とはいえ、関係の非対称性と時間の非同期化が決定的に重要だという点は同じだといえる(時間的非対称も空間的非対称も時間を非同期化する)。
《1個の解釈、唯一の時間において、「可能的なもの」と「実現されるもの」は、時間の前後を作り出す。可能的な複数のものから1個のものが選択され、実現される過程こそ因果律であり、とりもなおさず時間発展となるからだ。》
《しかし、多様な個、多様な時間軸を認めるとき、因果律は一様に進まない。ある個体において原因から結果が導かれるとき、また別の個体では結果が先行し、そこからは原因を想像することしかできなくなる。》
《(…)一つの個体において、ある階層では可能的なものから実現されるものが選択され、ある階層では実現されたものから可能的なものが開設される。それは、選択と予期とが両立しながら進む時間発展を生み出すことになる。》
このあたりに書かれていることは、「現代思想」一月号に載っていた「ポスト複雑系」に関するテキストと密接に関係があって、これは難しいテキストだけど、基本となる概念を理解するためにはこちらの方が分かりやすいかもしれないとも思う(分かり易く書かれていると、自分が既に知っている範囲内で読んでしまいがち)。時間を非同期化することについては、「現代思想」の方のテキストに詳しく書かれている。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130206
●関係の非対称性は、あくまで自らの制度の内部を生きるサディストと、自らの欲望に従うように他者を説得し訓育するマゾヒストの噛み合わなさとして、「あとがき」でも描かれていた。能動的に動く者は自分のことだけ考えて動き、受動的に動く者は周囲との関係をみて動く。このズレこそが時間を非同期化する。
《異なるタイミングのもとで出現する能動と受動の相違は、同時的なタイミングで想定される相互作用や運動と異なり、運動や相互作用の範囲自体を、そのつど変化させてしまう》。
●この本では、モノとコトとの、未分化・分化・融合(分化の解体)ということが重要な概念になっている。ここでややこしいのは、モノが、群れ全体に対する「個」という意味であったり、「個の集まりとしての群れ」であったりするところにある。そこで、群れに対する個という意味でのコト/モノを、地/図のような関係として、1個の全体としての群れに対する個の集まりとしての群れという意味でのコト/モノを、徴候/索引のような関係として考えると整理されるのではないか。
例えば、能動的受動者たちの空気(コト-群れ)のなかから受動的能動者(モノ-個)が現れ、それによって多くの者が触発されて新たな環境(コト)が生まれるという出来事は、地のなかから図が立ち上がり、立ち上がった図たちがいくつも重なることで新たな地となる、という風にイメージできる。一方、「痛み」のような身体イメージ(コト-群れ)と身体スキーム(モノ-集合)の未分化というような話は、徴候の集まりとしての身体と索引の集まりとしての身体という形でイメージできるのではないか。
(『魂と…』でも、群れ=身体は二つに分化される未分化なものだった。群れ‐コトとしての階層構造をもつ身体は支配的モナドによって成立し、モノとしての身体は、支配的なモナドの支配から脱したフラットなネットワーク状の身体---堆積---として描かれて、それは「だまし絵」のように立体と平面の二つの見方をもつとされていた。)
●群れ=時計は閉じられた環境でモノとして実現され、群れ=身体は開かれた環境でコトとして出現し、群れ=計算過程は、ある程度開かれた環境で、半モノ半コトとして実現された。ならば「群れ=意識」は……、ということになる。以下はこの本の「結論部分」と言える。
《モノとコトとが虹の色のように件連続的につながっている「モノ・コトスペクトラム」のなかで、環境によって融通無碍に姿を帰ることができるという性格こそ、群れのなかにモノ・コト未分化性が担保され、ダイナミックにモノ・コト分化・融合を反復していることの証左である。
群れの内部で、複数のモノ化が出現し、これらのモノを操作して、最終的に1個のモノが形成されるなら、それは自ら入力状態を創り出し、計算し、出力する過程となる。このようなモノは一部の個体群が作り出す、部分領域であり、相対的により相関性の強い部分群れとして形成されるかもしれない。
つまり群れは、自律的なモノ化を通して、外界からの刺激に対するイメージを、群れの内部の強相関領域として形成し、これらを操作、計算して、外界に対する判断をすることが可能となる。それは、意識をモノ・コトの未分化性から構想できるだろうという当初の目論見を満足させるものには違いない。それは、感覚し、計算し、判断する意識である。》
「群れ」は、自律的なモノ化によって、外界からの刺激に対する「イメージ」を、強相関領域(部分群れ)として形成する。これは、群れが環境に関する「表象」をもつということだと言える。そしてこの表象を、操作し計算して、それによって群れの動勢が変わるとすれば、それは「群れが意識を持つ状態だ」といってもよいことになる。
●だけどこのような「意識」は、『魂と…』で描かれるような「中枢」とは違っているようなのだ。例えば、ミナミコメツキガニの「群れ」が、普段は忌避する水路に入ろうと「決意」する場面は、次のように描かれる。
《バラバラに散開していた個体の集団が集まり、1個の群れとして行動するという振る舞いによって、全体としての動勢が現れるような現象は、「集団におけるコト」を「1個の群れというモノ」へと導くモノ化(正確には「全体性というコトを纏ったモノを形成する、モノ・コトの分化過程)である。
このようなモノ化(=モノ・コトの分化)は、群れの内部でもさまざまなレベルで起こっている。群れ内部で発生する、もっとも局所的なモノ化は、群れの先頭を走り、ときには水路へ侵入する、群れを駆動する個体の選択だろう。
群れの先頭を走るという突出した行動も、相互予期のなかで絶えず受動的能動者を選択することで起こる。ここにはモノ・コトの分化に引き続き、融合も起こるため、絶えず先頭は入れ替わり、モノ化は途切れることなく起こり続けることになる。》
群れを引っ張るリーダーのような中枢的個体が発生しているわけではない。しかし、群れの先頭部分を形成するある一定数の個体が強相関する(モノ化する)ことで、あるぼんやりした中枢的な意志のひろがりのようなものを形成している。しかしこれは、群れの内部にあるさまざまな階層のモノ化のうちでも、もっとも「局所的」なものだと言われている。これは、中枢が決意しているというより、局所が勝手に先行しているというイメージだろう。群れは意識をもつが、一つの群れが一つの意識によって統一されるわけではないということだろう。というか、「一つの群れ---モノとしての群れ」が、それ自体として---モノ・コト分化以前に---あるわけではない、ということか。意識はその都度、現れたり消えたりするし、身体もまた、その都度、現れたり消えたり、大きくなったり小さくなったりする、と。
●『魂と…』に中枢が出てくるのはそこで問題とされているのが「心身問題」だからで、この本に中枢が出てこないのは、この本では「ある種の社会性」が問題にされているから、という違いだろうか。でも、この二冊の本が示しているのは、心身問題と社会性の問題とは明確には分けられないということでもある。