●『群れは意識をもつ』(郡司ペギオ-幸夫)、第四章のメモ。
ミナミコメツキガニと群れの相互予期モデルの共通点。(1)非同期の移動。ある個体が動き、その影響で次の個体が動き、そしてまた次の…、という風に群れはバラバラに波打つように動く。(2)互いの移動可能性を予期して動く。予測はある一つの状態を予測することだが、予期は「可能性の束」としての位置を捉える。よって個体は、現在という点だけでなく、以前の軌跡と今後の可能性をまとった(時間的にも)拡張された身体としてある。
ミナミコメツキガニの群れを解析するためには、個体識別をして、そのそれぞれの動きを追う必要がある。干潟表面から70センチほどの高さにビデオカメラを水平に並べて、その下を通過する群れを撮影し、その画像をコンピュータで解析する。
密度と定向性。ある瞬間のスナップショットで、ある個体から一定の半径内にどれだけ他の個体がいるのかを数え、それをすべての個体において行う。その数値を平均化したものが密集度であり、それを適当な値で割って規格化したものが密度である。
ある瞬間と次の瞬間の二つのスナップショットから、すべての個体の動きを長さと方向をもった矢印として抽出し、長さを規格化した後に向きについてすべて足し合わせたのもが定向性。例えば180度の角度をもつ二つの矢印を足すと「0」になる。
密度と定向性の関係をグラフであらわすと、ミナミコメツキガニの群れも相互予期モデルと同様の分布(定向性が高くなれば密度が増すというわけではない)になる。
●相互予期モデルでは個体が相手の可能的遷移を予期することで群れを実現する。しかし、モデルと同様に可能的遷移がランダムに決まるとしたら、実際の生物が相手の可能的遷移を予期することは超自然的な出来事となってしまう。しかし、相互予期に使われる可能的遷移を過去の履歴、過去の運動に依存するものと仮定すればどうだろうか。その時身体は、空間的な広がりだけでなく時間的な厚みももつことになる。例えば雑踏のなかで向こうから来る人を避ける時、例えば剣の達人が相手の動きをかわす時、人はそのようにしているのではないか。
過去の運動履歴を可能的遷移とする仮想動物のモデルを考える。例えば、その個体が過去の五回のステップで移動した矢印の向きが、次のステップの動く方向の五つの候補(可能的遷移)になる、という風に。
仮想動物の群れのなかの三つの個体に注目してみる。その個体が次のステップで移動する先は5×3で15か所の候補があるはずだ。しかしそのうち、三つの個体すべてで可能的遷移が重なっている行き先が一つあり、二つの個体で重なっている先が三つあったとする。残りの、まったく重複していない移動先候補は六つになる。個体は、人気のある移動先の移動しようとするので、一つの個体は三つ重なる地点へ、残りの二つの個体は二つ重なる三つの地点のうちのどこかに、それぞれ移動することになる。
ここで、個体が実際に移動した先を「実現遷移」、可能的遷移のすべてから実現遷移を引いたものを「可能遷移」とする。そしてそれぞれの頻度(個数)を縦軸に、重複度(人気度)を横軸にグラフにしてみる。すると明らかに、実現遷移と可能遷移とでは頻度分布に違いが出る。実現遷移の方が重複度の高いところにピークがくる(勿論それは、そのようなモデルだからだが)。つまりそれは、相互予期の効果があることを意味する。
この考え方をミナミコメツキガニの群れから実際に得られたデータとつけあわせてみる。可能遷移を過去の運動から求めると、実現遷移は可能遷移から選ばれていることがわかる。そして、実現遷移の重複度頻度分布は、可能遷移よりも重複度の大きい方へと偏向しており、これは仮想生物のモデルの分布と重なる。よって、ミナミコメツキガニの群れは、モデルで仮定した相互予期を実現していると考えられる。
この結果と対照するために、同じミナミコメツキガニのデータから、可能的遷移が(過去履歴からでなく)ランダムに発生するとしてみると、重複度頻度分布は、可能遷移も実現遷移も同じ形になってしまう。つまりそのようなランダムな可能的遷移では相互予期が「効かない」ことになる。≪以上から、履歴を参照した相互予期によって、ミナミコメツキガニは移動しているだろうと考えられる。≫
●これをもう一度モデルに戻して考える。可能的遷移の数を参照する過去の履歴の長さと一致させる。つまり、五ステップ前までの履歴が参照されるならば、可能的遷移数は五であり、十ステップ前の履歴まで参照されるなら可能的遷移数は十である。そして、五なら五ステップより前の記憶(履歴)は捨てられ、新たな記憶と入れ替えられてゆく、とする。こうして得られる遷移の束が、いわば空間的、時間的に拡張された個体の(予期的な)身体と考えられる。この時、履歴の長さ=可能遷移数によらず、実現遷移の重複度頻度分布は可能遷移よりも重複度の大きい方へと偏向しているという、今までのモデルと同じ形になる。
ミナミコメツキガニの群れでは、個の自由と群れの形成は両立している。それは相互予期によると考えられる。
≪コミュニケーションをどのようにとるか。われわれ人間ですら、原理的には共通認識が不在もしくは不明のまま、意思疎通せねばならない。哲学者のソール・クリプキはここに“暗闇のなかの跳躍”を認め、そのための共同体を想定した。
本稿での議論において、暗闇のなかの跳躍は、極端な能動を意味する。クリプキは極端な受動(コンセンサスのある世界)を斥け、極端な能動(暗闇のなかの跳躍)を逆説的に認めながら、結果的には共同体によるゆるやかな共通理解を認めた。しかし、その実態はよくわからない。これに対する本稿での答えは、極端な受動や極端な能動を放棄し、非同期的な時間と衝突回避という調整によって、能動的受動、受動的能動なる概念を導入することだった。≫
●このような認識を可能にするものは、コンピュータによって、「群れ」を構成する一個一個の「個体」の動き方が直接的に把捉、解析可能になったということが大きいのではないかという気がする。それは表象‐代表によらず、微小表象を直接的に捉える思考という感じに近いのではないか。とはいえ、こういう言い方では還元主義のようになってしまう。ここで扱われているのは、どちらか一方に還元するのでもなく、しかし二元論でもない、「微小表象の群れ(コト)」と「表象‐代表(モノ)」との「関係(未分化であり、しかし分化され、斜交して一方から他方が生じ、しかし統合されない)」ということなのだと思う。これはその文脈や取り扱われる対象やニュアンスの違いによって、トークンとタイプとか、主語と述語とか、図と地とか、索引と徴候とか、いろいろ言い換えられる。これらはすべて、一元論でも二元論でも捉えられないペアだということになる。そして、心身問題(体と魂)というのは結局このことなのだろうと思う。
(第四章のメモはまだつづく。)