●『群れは意識をもつ』を読んだ後で改めて西川アサキ「「この手」をどうするのか?」(「現代思想」フォン・ノイマン特集)を読むととても面白い。個が個として保たれたままでも「群れ」は群れとしての意識をもつ(群れ内部に、外的な環境を表象し、それを対象化して操作的に扱い得る強相関領域---部分群れが現れる)のだとして、では、なぜその時にも、(個における)わたしとあなたのクオリアが「混ざらない」のか、という話(いや、正確にはちょっと違って、西川さんのテキストは、観測者-自我が宇宙-物質の外にあるとしたら…、という話なのだけど、そのように郡司‐西川を短絡して考えることもできるのではないか、と)。このテキストではそれが、具体的というか、具象的な事例をほとんど挙げることなく、ひたすら、抽象的なモデルをつくっては、つくりかえる、というスタイルによって追求されている。それは、ある文脈に対して何か働きかけを行っているのでも、他人に対して説得や論証を行っているのでもないようにみえて、それを読むことは、一つの特異な頭脳がひたすら駆動しているのを(感嘆と高揚とともに)傍らで眺めている感じに近い。
ただここには(このテキストで参照されてもいる)『心身問題と量子力学』(マイケル・ロックウッド)のまえがきにも書かれている次のような認識があるように思われる。
《しかしながら、物質についてのニュートンの概念はまちがっており、哲学者が、それにとってかわった概念を取りいれる仕事にきちんととりかかる時期にきている。現在理解されているかぎりでは、量子力学がまさにその物質についての理論である。したがって、心が折り合いをつけなければならないのは、シュレディンガー、ハイゼンベルク、そしてデュラックの物質であって、ガリレオ、デカルト、そしてニュートンの安心できる堅牢なものではない。この物質、量子力学の物質は、きわめて問題をはらんでおり、哲学的にまちがって理解されている。》
量子力学が問題になるのはあくまでミクロな系に限るのだからさしあたりそれは「人の生きる現実」から除外しておく、という風にはできない。「この手を…」にも書かれているが、《たとえば我々が潰れてしまわず大きさを保っているのは、電子が量子的な振る舞いをして原子に落っこちてしまわないから》なのだとすれば、我々の身体(の「この形式」)がそもそも「電子の量子的振る舞い」によって可能になっている(当然だけど)。物質(心身問題の「身」)が、量子力学的なものであるとすると、それ(心身問題)について考えることはいちだんとややこしくなることは避けられないし、(感覚的な)具象的に理解可能な事例だけで考えることはできなくなる。抽象的な具体例について、あるいは具体例について抽象的に、考える必要が出てくる。
おそらく筆者には、ここに書かれていることは科学ではなく思弁であり、思考のイラストレーションのようなものだという認識があるのではないか。でもそれは、現代の科学によって要請された思弁であり、言い換えれば、このような思弁に科学が突き当たっている、あるいは、科学こそがこのような思弁を必要としているということではないか。だから、科学をこのような思弁から切り離しておける(切り離すべき)と考えることは、やはりできないのではないかという気がする。
●二つの混ざらない「わたし」の関係(相互作用)のモデルとして、その上に代数が定義されたS1とS2という二つの集合(代数により各元間での可換・非可換の関係の違いが定められ、重複する元をもつ二つの集合)の元(A〜L)を平面上に配置した図を示して、S1、S2ともに可換子集合をとり(S1'、S2')、さらにまたその可換子集合をとる(S1''、S2'')という操作を通して、わたしとあなたとの間の私秘性、共感可能性、共可能性(客観性)の領域を説明するところがあって(自分で書いていても「一体何を言ってるんだ?」という感じの文だ)、この集合の元はクオリアのオブザーバブルということになっているのだけど、集合の元を「群れのなかの個」として考えれば、郡司モデルの「群れの意識」における異なる強相関領域の関係についての分析にも使えそうな感じもする。
群れが意識や身体を持つとして、では群れ全体は一人なの、二人なの、それとも一人でもあり二人でもあるという状態は可能なの?、と問うことも出来るのではないか(「群れ」の「わたし」は一つなの、二つなの…)。あるいは、「痛み」が、「わたしの痛み(全体)」であると同時に「歯の痛み(対象‐部分)」でもあるとすれば、「群れ」が二人でもあり得るとしたら、その痛みは二つの全体(二つのわたし)のなかで「混じり合う」こともあるの?、とか。ただ、バラバラの状態が自らモノ化することで(その都度)生じる群れの強相関領域を構成する個と、あらかじめ代数構造(可換・非可換)が与えられているオブザーバブルの集合の元とでは(詳しくは分からないけど)きっとかなり異なるのだろうから、簡単には集合S1、S2≒強相関領域というわけにはいかないだろうし、可換・非可換の違いをどう考えるのかということも問題になるのだろうけど。だから、まあぼんやりした思いつきということだけど。
≪(…)先の「代数」は、元々その「表現」としての「ヒルベルト空間」とは独立に、オブザーパブル間の関係でいえることと、表現を必要とすることを区別する動機で抽象化されたものだった。≫
≪「代数」だけでは、ある条件を満たす要素の集合というだけで、それが現実の観測に対してどういう期待値を与えるか等々の計算ができない。その意味で、「代数」それ自体は観測可能ではない。≫
≪つまり、代数=クオリア=観測不能な要素間関係、表現=観測可能(期待値計算可能)な世界、状態(≈波動関数)=クオリアと観測可能な世界を結ぶ表現を可能にするもの、と考えると(…)もう一つの「隠れた心身問題」があるとも解釈できるのではないだろうか。≫
●それにしても、量子ベイズ主義(「Qビズム」というらしい)とか、人はいろんなことを考えるものなのだなあと思う。また「日経サイエンス」(量子論特集)を買ってしまう。
●七月に撮った写真。もうちょっと。