●引用、メモ。ドゥルーズ「カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について」より。
これを読むと、『シネマ2』の時間イメージが想起される。時間イメージは、ベルクソン的な持続であるより、カント的な時間がもととなっているように感じられる。
《時間は、もはや時間が測定する運動に関係づけられはしない。そうではなく、運動が時間に従属し、時間のほうか運動を条件づけるのである。それゆえ、運動はもはや対象による限定ではなく、ある空間の記述、それも、行為の条件としての時間を発見するためにわれわれがそれを捨象しなければならない空間の記述となる。時間はしたがって、単系的かつ直線的なものとなるのだが、それは、派生した運動を時間が測定するなどという意味においてではまったくなく、それ自体においてかつそれ自体によって、あらゆる可能なる運動に、時間がその諸限定による継起を課すかぎりにおいてである。これは、時間による修正である。時間は、時間を運動に依拠させるような神によって湾曲させられることをやめる。時間は基本〔=基数〕的[cardinal]であることをやめ、序列〔=序数〕的[ordinal]なものとなる。すなわち、空虚な時間の秩序[order]となるのである。》
《それゆえ、時間を継起と定義することができないのと同様に、空間を共存性ないし同時性と定義することもできない。必要となるのは、それぞれが、すなわち空間と時間が、まったく新しい規定を見出すことである。動き、変化するもののすべては時間のなかにある。だが、時間そのものは変化せず、動かないが、かといってそれは永遠だというわけではない。時間は、変化し動くもののすべての形式なのだが、それは不変で変化することのない形式なのである。それは永遠なる形式ではない。そうではなく、それはまさしく永遠でないものの形式、変化と運動の不変の形式なのである。》
●面白いのは、これを受けての、次に引用する部分だろう。
ただ、最後の方でいきなり出てくる「自我」というのがよく分からなくて、それは「自己」と同じ意味なのか、それとも、「私」「自己」と記されているものとは異なる第三の様態を示しているのか。だとしたら「自己」はどこへ行ってしまったのか。とりあえず、自己と自我とをほとんど同じもの、というか、「私」とは別のもう一つの様態として読んでおく。
「我思う、故に我有り」において規定される私の実存(私は存在する)は、「我思う(私は思考する)」が時間という形式の内部でのみ作動するものであることから、時間という形式に従属した、その内部での実存としてしか規定されない。
「私」とは、時間のなかで次々と変化する、その都度での「私は思考する」という行為(意識の強度的生産)であり、「自己」とは、時間の中でその都度生産される「私=私は思考する」を受容するための場である。「私は思考する」という能動は、その能動をみずからのものとして表象する、受容的、受動的な「自己」によってのみ、その「実存(存在)」が規定される。つまり、「自己」という場が、その都度、「他者」としてあらわれる「私=私は思考する、という行為」を、自らの表象として受容することによって、主体は成立する、ということ。
《すなわち、無規定な実存が規定可能なものになるには、ただ時間の内部においてのみ、時間という形式のもとでのみであるということだ。それゆえ、「私は思考する」は時間を触発するのであり、時間の中で変化し、一瞬ごとに意識のある度合いを呈示する、そんな自己の実在のみを規定するのである。規定可能性の形式としての時間は、したがって、魂の内包的運動に従属しているのではない。そうではなく、反対に、瞬間における意識の度合いの強度的[intensive]生産こそが、時間に従属しているのだ。》
《〈自己〉は時間のなかにあり、絶えず変化してゆく。それは、時間の中でさまざまな変化を経験する受動的な自己、というよりもむしろ受容的な自己である。〈私〉はと言えば、それは私の実存(私は存在する)を能動的に規定する行為(私は思考する)であり、だが、それがその実存を規定し得るのはただ時間の内部においてのみ、自分自身の思考の能動性だけをみずからに表象するような、受動的で受容的で変化してゆく自己の実存としてのみなのである。〈私〉と〈自己〉は、したがって、時間の線によって分離されており、この時間の線が、根本的な差異という条件のもとで両者をたがいに再び関係づけるのである。私の実存は、能動的で自発的な存在の実存としては決して規定され得ない。そうではなく、それは〈私〉を、つまりは自己を触発する〈他者〉としての規定の自発性を、みずからに表象するような受動的な自己の実存として、規定されるのである(「内的感覚のパラドックス)。》
《私は時間という形式によって自己自身から分離されているが、にもかかわらず、私は一つである。なぜなら、〈私〉はこの形式をその綜合を行いつつ必然的に触発するから、それもただ単に別の部分へと継起してゆく一つの部分についてではなく、一瞬ごとに、その綜合を行いつつそうするからであり、そして〈自己〉はこの形式における内容として必然的に〈私〉によって触発されているからである。この規定可能なるものの形式は、規定された〈自我〉が規定作用を一つの〈他者〉としてみずからに表象するようにするのである。要するに、主体という狂気は、蝶番のはずれた時間に対応しているのだ。それはまるで、時間における〈私〉と〈自我〉との二重の背き合いであり、時間こそが両者を関係づけ、縫い合わせているのである。これが時間の糸である。》