●昨日書いたラカンの話ととても深いところで響き合うことをフーコーが書いている。夢と想像力についてのとてもうつくしいテキストである「ビンスワンガー『夢と実存』序論」(最後の「5」の部分がすばらしい)。
例えば「ピエールについての心像」(私がピエールを想像すること)は、ピエールが不在である時に、その非現実性のなかで発生するとサルトルは言う。しかし実は、私が、ピエールの不在において、ピエールの心像をもつという時、それはピエールを非現実化するのではなく、《それはなによりもまず、私自身を非現実化し、もはやピエールと会う可能性が私に残されていないこの世界から私が身を引くということなのである》とフーコーは書く。だがそれは、私が現実の外へ逃避するということではなく、《私がおのれの現存在しているこの世界のさまざまな道を遡ってゆくと、その過程で、ピエールが除外されていることのこの必然性に発する道筋がもつれだし、私の現存在もこの世界のうちでの現存在としては消し去られてしまう、というだけのこと》だ、と。
《想像のなかで彼が部屋にいるのを見るというとき、私は、自分が鍵穴から彼をうかがっているとか外から彼を眺めていると想像したりしない。私が魔術によって見えないままで彼の部屋に入ってゆくというのもまったく正しくない。(…)それはピエールのいるその世界になりきることなのだ。私は彼の読んでいる手紙であり、注意深く読み進める彼の視線をおのれのうちにとり集めている。私は、彼をあらゆるところから観察しており、そしてまたそれゆえに彼を「見る」ことのないその部屋の壁なのである。》
ここで、「私」が想像によって「ピエールのいる世界そのもの」になりきることで、彼を「見る」ことすらなくなっているという事態は、ラカンが夢のなかでの「視点」の消失について語っていることと重なる。つまり、「想像する」こととは私がその世界そのものとなることであり、「想像すること」において重要なのは、私がピエールの心像もつことそのものではなく、自らの「実存(ラカンにおける、荘子にとっての胡蝶)」が彼との再会を望んでいるのだ、という、その「実存の運動(夢のなかの蝶々の運動)」を、その方向性を、私が自らの想像のなかに発見する、ということなのだ。
《私がピエールの帰還を想像する場合に本質的なのは、私が門を跳び越えるピエールの心像をもつ、ということではない。本質的なのは、私の現存在が、夢における遍在性にゆきつこうとして、おのれを門のこちらがわにも向こうがわにも配分し、帰ってくるピエールの思いのうちにも彼をまっている私の思いのうちにも、彼のほほえみのうちにも私の喜びのうちにもあますところなくおのれを見いだしながら、夢のなかでと同様に、この出会いがまるでおのれの実存の成就であるかのように、それへと向けられている実存の運動を発見するということなのである。》
想像するとは、《おのれ自身をおのれの世界の絶対的な意味として指向することであり、おのれ自身を、みずから世界となり、ついにはおのれの運命であるこの世界にしっかりと根を下ろすような、そうした自由の運動として指向することなのである》。だから、《想像するとは夢のただなかでおのれ自身を指向することであり、つまり想像するとは、夢みているおのれを夢みることなのである。》
つまり、「想像する」ことは、この世界の外側に別の世界を想定することではなく、私の実存とこの世界とを結びつけ、この世界のなかで私の実存の自由な運動が開かれるための、その可能性と方向性をそこから探りだかものなのだ、と。とはいえ、《想像的なものは不在を地として展開されやすい》ことも確かだ。《私の実存がピエールとの出会いに向かってゆく夢をみるように私を誘うのは、ピエールの不在とそれについて私がいだく後悔の念》であったりする。しかし《現実の根源的な意味があらわにされるものもやはり想像的なものを介して》なのである。それは、現実の知覚、現実的な関係すらも、その深い意義は、じつは想像的なものに支えられている、ということからも分かるだろう。
《私の前に座っているピエールが想像的なものであるのは、その現実性が二分され、(私が思い描き、切望し、予想している)もうひとりのピエールという潜在像を私に派遣してよこすからではなく、(彼が現実に目の前にいるという)この特権的な瞬間に、彼が私にとって彼そのものであるという、まさしくそうした理由によるものなのだ。》
《彼の友情は、すでに私が素描している私の実存の軌道上のどこかに位置づけられている。》
《私がピエールを知覚しているそのときにピエールを想像するということは、彼のかたわらに、もっと歳をとったときの、あるいはほかの場所にいるときの彼の心像をもつということではなく、われわれふたりの実存が織りなす原初的運動を捉えなおすということである。この二つの実存の早い時期におこなわれた交切のゆえに、いまわれわれふたりがともにこの部屋に居合わせるように定めているこの現実のシステムよりもいっそう根源的な同じ一つの世界が形成されうるからである。私がその原初の運動を捉えなおすそのとき、私の知覚自体は依然として知覚でありつづけながらも、それが実存の諸方向そのもののうちにおのれの居場所を見いだすというただそれだけのことによって、想像的なものになるのだ。また、そのとき、私の語る言葉や私の感情もまた想像的なものになるし、私が実際ピエールと交わす会話も友情も、すべてが想像的なものになる。》
現実は、想像的なものと交錯し、想像的なものとなることによって、はじめてその深い異議を開示する。現実の知覚そのものがそのまま想像的なものになること。その時私は、現実を「夢みているおのれを夢みる」ようにして経験する。
ところで、フーコーは、想像することは「心像をもつこと」と同じではないと繰り返し書いている。心像に固着することはむしろ「病的な幻覚」であるとさえ言う。想像することとはイメージそのものやイメージをもつことではなく、あくまで実存へと向かってゆく運動であり、《ある程度までは心像も、実存の諸方向そのものを復元する想像力の運動に組み込まれはするだろうが》、むしろ心像はその運動を知覚へと従属させ、想像力の《運動を知覚対象の可動性と同一視するかのようなふりをする》、と。
夢が、断片的な心像としてしか意識されないとしても、それは《心像が夢に働いている想像力の一スナップ写真であり、目覚めた意識がおのれの夢みていた瞬間をとりもどすための一手段であることを示しているにすぎない。言いかえれば、夢の最中、想像力の運動は、世界の根源的構成が成就される実存の瞬間に向かっているのである。ところが、目覚めた意識がこの構成された世界の内部でこの運動を捉えなおそうとすると、この意識はこの運動を知覚の用語で解釈し、その居場所としてほぼ知覚されている空間内の諸路線を与え、この運動を心像の疑似-現前の方にねじ曲げてしまう。つまり、目覚めた意識は想像力の本来の流れを逆行し、夢そのもののあり方とは反対に、それを心像のかたちで復元してしまう。》
ここでは、知覚がそのまま想像的なものへと至ることの逆のはたらき、想像する力が知覚に譲歩してしまう働きが描かれ、それは心像に固着することによって起こると書かれる(その関連でフロイトが批判的に取り得げられる)。したがって、すべての想像力、あらゆる芸術は、《心像の幻惑を打ち砕》かなければならないし、《真正なものになるためには、夢みることを学びなおさねばならない》とフーコーは書く。ビンスワンガーのテキストは、そのひとつの実践である、と。
そしてこのテキストは、終盤にきてとうとつに、表現、様式(スタイル)、歴史、倫理という主題が(要するにフーコー的な主題が)召還され、方向が急転換する。
《表現とは言語のことであり芸術作品のことであり倫理のことである。したがって様式(スタイル)に関するあらゆる問題は、そのまますべて歴史の諸契機なのであり、これらの契機の客観的な生成がこの世界を構成するのであるが、夢はわれわれにそのうちの根源的契機と、われわれの実存を導くさまざまな意味作用とを示してくれるのである。といっても、夢が歴史の真理だということではない。夢こそ、実存のうちでもっとも歴史に還元しにくいものを浮かびあがらせることによって、客観的表現のうちではまだおのれの普遍性の契機に達していなかったある自由のために実存の選びとりうる方向をもっともよく示してくれるものだ、ということなのである。それゆえ夢の優位は、具体的人間を人間学的に認識する上で絶対のものなのであるが、他方、この優位を乗り越えてゆくことこそが、現実の人間にとっての将来の課題である---つまりその倫理的課題であり、歴史的必然なのである。》
そして最後は、次のように締めくくられる。
《実存の不幸とはつねに自己疎外(狂気)のがわに記入されるものであり、実存の幸福とは、経験的なレベルにあっては、表現の幸福ということでしかありえないからである。》