●メラニー・クラインの原空想、内的対象についての引用。これはおそらく、昨日、一昨日の日記に書いたことと関係がある。「思い懐かれることのない空想」としての原空想という概念は、なぜか強烈に荒川修作を感じさせるものがある気がする。メラニー・クラインはちゃんと読んでみるべきかも。『集中講義・精神分析』(下)(藤山直樹)より。
《アンナ・フロイトでは、一次的ナルシシズムという自他別がないところ、関係性のないところから、子どもがだんだん育ってゆくという話でした。しかし、クラインはそうではなくて、最初から子どもには空想があるし、ゼロ歳のときからおっぱいを破壊したいとか、そのなかに何か悪いものを突っ込みたいとか、そういう空想を持っていると考えます。空想を持つというのはどういうことかというと、表象できないかもしれない、考えることはできないかもしれないけれども、身体感覚や、あるいは対人的な圧力のかたちでその空想を表現していると言っていいでしょう。つまり、子どものこころに組織があるということです。エディプス・コンプレックスも、フロイトは三、四歳になって出てくると言いました。クラインの考えでは最早期からエディプスはあります。ただし、そのエディプスを体験する様式が、一人の人物としてのお母さん、一人の人物としてのお父さん、一人の人物としての自分というような、全体的な人間関係のなかで展開するのではなくて、ペニスとかウンチ、おっぱい、お腹とか、そういう非常に部分的なもの、部分対象の関係性のなかでしか体験できない。しかも、それを主観的にというか、考えたり、思い懐くということはほとんどできない。思い懐かれることのない空想。この考えを延長して、ビオンという人は思考thoughtというのもは考えられるより前から存在すると言いました。誰かに考えられることを待っているのだと。誰かによって考えられるまで、thoughtは具体的なかたちで、対人関係の圧力や、そこでの身体感覚、あるいは筋肉運動、そういうかたちで存在している。それは、考えられるようにこころが練り上がるまで待っているのだという考えをビオンは持っていました。》
《クラインは、乳児にとってすべては空想的であると言います。すべてを空想によって体験していると。お腹が減ったなと思ったら、お腹が減ったと思うのではなく、何かすごく悪いものがバーッと自分を攻撃してバラバラにしていると体験する。しかも、その張本人はおっぱいだというように投影する。そして、そのおっぱいをやっつける、壊す、切り刻むということを乳児はこころのなかでいつもやっている。すごい世界です。(…)つまり乳児には、何かがない、おっぱいがないという、「ない」という概念がないから、おっぱいがないという概念というのは持てないから、悪いものがあると体験する。つまり、空腹というのはおっぱいがないことだというように概念化、抽象化して考えられなくて、お腹のあたりに具体的に悪いものがグワーッと出てきて、自分のお腹のなかを切り刻んでいくというように体験している。つまり、空腹という一つの概念ではなく、腹部に悪い対象が、悪い何者かがいる。》
《しかも、からどとこころの区別が乳児にはついていないとクライン派は思っています。最早期、自分のこころの内部にすごいわけのわからない力がワーッと動いているような体験をしている。それを、クラインは内的対象と言いました。よい内的対象や悪い内的対象。今のは悪い内的対象です。最終的に何かがあると悪い内的対象が出てくるのは、死の本能です。つまり、フロイトが最後に言った、生の本能と死の本能ということを、クラインは忠実に受けとめたわけです。悪いことを起こす、自分を破壊するような大変悪い本能があって、それを他者に投影して、他者が自分をやっつけてくるというように体験を生成する基本的なモデルがあって、それが自分の内部にワーッと悪い対象をつくったり、外部から迫害的な対象をつくったりしていくわけです。(…)それが徐々に「ああ、ないんだな」と思えるようになるのは、ずっと後のことで、「お腹が減っているんだな」と。つまり、それはnothingという概念が生まれるからです。nothingという概念が生まれる前は、具体的なno-thingという「もの」がこのなかにはある。ないということを体験するのは難しくて、ないものは、悪いものがある、ということに全部されてしまうということです。そういう世界、つまり、乳児のこころにとって物事が常に具体的にひしめいているわけです。》
《たとえば自我心理学のジェイコブソンなんていう人が内的対象ということを言うと、人間がこころのなかに思い浮かべる人物像のことを言うわけです。それは表象representationです。しかし、クライン派の言う内的対象は表象ではありません。表象する機能が生まれる前の、具体的な体験の総体です。それは実際、表象されているものであると同時に実際的に自分を攻撃したりむしばんだりするようなものです。要するに、考えられていることと、実際に起こっていることの区別がついていないのです。考えられていることと、実際に起こっていることの区別がつくのは乳児のこころではずっと後のことだということです。考えられていることは実際に起こるし、実際に起こっていることは実は自分の考えなのです。すべてのことは全部、自分の空想の世界でもあるけれとも、しかし、それは非常に具体的に起こっていることでもあるという、そういうわけのわからない世界を生きている乳児を描き出そうとして、クラインが一生懸命つくり出したのが内的対象という概念です。》
《もちろん乳児は無理にしても、一歳、二歳、三歳くらいになってくると、そういう世界にいながら微かにでも言葉をつかったり、象徴をつかったりすることができてくる。象徴をつかうということはどういうことかというと、具体物をある概念に置き換えて、言葉などは高度に組織された象徴と言ってもいいわけですが、そうすることで、ここにスペースが生まれるわけです。》