●マーク・スタインバーグは「デジタル・イメージの諸次元」(日本映画は生きている六巻『アニメは越境する』所収)というテキストで、いわゆる「アニメ」を特徴づけるイメージの構築の仕方として、イメージ間の四つの「隔たり」を指摘している。第一の隔たりとは、一つのシークエンス内部でイメージ間の隔たりや拡張があること(リミテッド・アニメーション的な表現)。第二の隔たりとは、一つのフレームの内部にある、多層化されたイメージのレイヤーの間の隔たりを操作することで、空間や運動を表象する傾向(第一、第二の隔たりは、ラマール『アニメ・マシーン』から引かれている)。第三の隔たりとは、二次元的な表現と三次元的な表現とを対立的に共存させていること。第四の隔たりとは、物体とその表面のテクスチャーとを分離させる表現がみられること。
でも、この四つの「イメージの隔たり」の操作はほとんどそのまま、マティスピカソ、ボナール(ナビ派)などにもみられると言える。
(例えば、マティスの「赤い部屋(赤のハーモニー)」には、(1)から(4)のすべてがみられると言っていいと思う。)
(アニメが近代絵画に影響を受けていると言いたいわけではない。アニメは近代絵画などまるで意識していないだろうし、そもそも双方は「趣味」や「来歴」や「背景」が大きく異なる。ただ、結果としてけっこう近いことをやってしまっているとはいえるし、それは、二次元において---遠近法とは異なる形で---イメージや空間や運動を表現しようとするときに行き着く必然ということでもあろう。)
モダニズムの絵画が批判される時の安易な常套では、(1)ルネサンス的(あるいはデカルト的)な遠近法(広義のモダニズム)、か、(2)フォーマリズム的な平面性(狭義のモダニズム)、か、そのどちらかをモダニズムとして叩くのだけど、しかし、モダニズムの最も重要な実践はそのどちらでもなくて、マネ、セザンヌマティスピカソ、ボナールなどによる多平面性にあって、それは、一点透視図法や三次元的モデリング(≒超越的な主体)に抗いながらも、決して平面性には還元されない、決して純粋な抽象に至ることのない、非再現的「傾向」をもった多平面的絵画であると言える。
(1)をモダニズムとして、例えばそれに対するスーパーフラットなどの優位を言う人は、それ以前に、もっと徹底したモダニズム批判が、19世紀終わりから20世紀はじめにモダニズム内で(狭義のモダニズムとして)実践されていたことをなかったことにしている。(2)をモダニズムとして批判する人は、グリーンバーグが、セザンヌなどの実践を、絵画の自己批判のなかで純粋な平面性という目的に至るための途中段階であるかのような(純粋化の途上にあるものであるかのような)言説を作り上げ、自分の陣営に引き込んで序列づけをしてしまったがために、グリーンバーグを叩けば自動的にそちらも否定できる、あるいは抽象表現主義が行き詰るということはその源流としてのセザンヌマティスの可能性も行き詰ったことになると考えているのだろうけど、それはグリーンバーグの圏域にある言説の中だけの問題だ。
モダニズム(の絵画)は、(1)世界のデカルト的座標化、でもなく、(2)純粋化へと向かうカント的な自己批判的運動、でもはじめからなく、そのような理念から(あるいは古典的な表象秩序から)常に零れ落ちる、不安定な「感覚」というものを、どのように捉え、捉え直し、秩序づける(再編成する)ことができるのかという探求であったのではないか。
●晩年のセザンヌの絵の、絵具が塗られていなくてキャンバスの地が露呈しているところは、画面が現す空間や事物の構造の外にあり、表象(図と地)の構造を背後で支えているもので、絵画の組成のなかではそれは支持体(基底材)と呼ばれるが、それは物質ではなくて、ガタリの言う「非物体的な宇宙」のようなものだ。セザンヌの絵を観るということは、セザンヌの筆触による空間や物質(この世界に現れているもの)の構築を観ることである以上に、その背後にある(しかし一体としてある)宇宙のとりとめの無さに慄くということであり、構築されている空間や物質と、それを支えている非物体的な宇宙との間には繋がりがあるはずだが、そのつながりには、実は根拠や筋道がみいだせないということ(「根拠がない」というより、それを「みいだせない」というと)に慄くということだ。セザンヌの絵は、ガタリが言うような意味での非物体的な宇宙の存在を垣間見せるからすごい。
でも、いくら美術を勉強しても、そんなことは誰も教えてくれない。その手前にあることをごちゃごちゃやっているうちに、人の一生は終わってしまう。
以下、ガタリの『カオスモーズ』(p49-50)から引用。
≪流れと機械の系統流からなる領域を支配するのは言説的集合の論理ですが、そこでは主体の極と客体の極が常に分離しています。なんらかの命題が真であるということは排中律に照らして決められるのだし、あらゆる対象は「背景」との二項対立の関係にとらわれた状態で生じるのです。それに対してパトスの論理では、外にあり、囲い込むことのできる包括的な参照基準はもはや存在しません。いきおい対象との関係が不安定化し、主体化の全機能も再検討をせまられることになるのです。非物体的な宇宙の支えとなるのは、しっかりと世界にくくりつけられた座標系ではなく、単独の縦座標であり、かろうじて実存の領土につなぎとめられた強度的秩序付けであるわけです。しかもそこにある領土そのものが、世界性の全体を一度に取り込むことを望んでいながら、実際には痴呆的なリトルネロに依拠するしかないのだし、リトルネロリトルネロで、みずからの空疎を明かすとまではいいませんが、少なくともその存在論的強度がゼロ次元にあることを指標的に示しているのです。だから領土は決して客体として与えられることがなく、常に強度的反復として、胸がうずくような実存の肯定として目の前にあるのです。≫