●引用、メモ。『映画とは何か』(三浦哲哉)、第三章「ブレッソンの映画神学」から。「受肉=表徴」において、オリジナルは時間的に後から来て「余型」に過ぎなかった意味を完成させる。
《パスカルは、彼が親交を結んだポール・ロワイヤル修道会の宗教思想家---通称ジャンセニストたちと同様に、絵画的な表象、演劇的な表現に対して消極的な態度をとっていた。先述したイメージの倫理の帰結として、ある側面において彼らはイコノクラスムに近づく。》
《正しいイメージの使用とは何か。「受肉(…)」である。「受肉」とは、「見えないもの」が「見えるもの」に宿る「秘儀(…)」のことであり、キリスト教の根幹に関わる出来事である。神的存在の地上における現前、すなわちキリストを可能にするものこそが第一に「受肉」であるからだ。パスカルの批判は、「受肉」を「表象」と混同するという虚偽に向けられていたのだった。》
《(…)知られるように、プロテスタント陣営は、教会制度の他の儀礼とともに「聖餐(…)」の有効性に疑義を呈する。パスカルたちはそれを擁護する論陣を張った。「聖餐」は信者に与えられるワインとパンがキリストの血と肉に変化するという秘蹟のことであるが、パスカルたちにとってこれは、見えないものの見えるものへの「受肉」、ひいては人にして神、イメージにしてオリジナルでもあるキリストという特異な身分をどう捉えるかという問題と直接に結びつくからである。》
《では「受肉」とは、具体的にどのようなイメージの在りかたのことをいうのか。悪しき「表象」とどう異なるのか。理解しなければならないのは、「受肉」が時間のなかの出来事であり、『パンセ』においてそれが「予型説」との関連において構想されたものだということである。》
《たとえば「ノアの方舟」は「教会」の「予型」であるとされる。「ノアの方舟」という記号が旧約に書かれているが、それは新約における「教会」というもう一つの記号によってはじめてその価値と内実を得る。預言が成就したということによって、価値が遡及的に与えられるということだ。「預言者ヨハネ」の価値が与えられるのは、彼がその先触れであったところの「キリスト」の出現によってである。「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしより先におられたからである」。》
《(…)「表象」というとき、一つの記号が一つの意味を固定的に指し示しうるという想定がある。時間の中での意味内容の変化がここでは考慮に入れられていない。「表徴」は、はるかにダイナミックな記号の様態に関わる。それは預言の成就としての「受肉」を視野に納めた概念である。ここではオリジナルが時間的に後から来て、予型にすぎなかった過去の出来事の意味を完成させる。「表徴」においては、後からくるイメージこそがそれに先行するオリジナルの価値を決定するという転倒があるのだ。》
《そこで世界は巨大な暗号文として現れるだろう。(…)あらゆる目に見えるイメージは、確定的なオリジナルを所有することのない巨大な宙吊り状態に置かれてある。ただし、根拠を失った表象(…)は、代わりに可変性を受け取る。イメージはそれぞれ時間の中での関係に依存する「変数」となる。そこには外部から何ものかが到来するという出来事---「受肉」の可能性が残される。》
《ブレッソンがパスカリアンであるといえるのは、単一的な代理=表象への信頼ではなく、むしろイメージの可変性とそこで起こる「受肉」に信仰の可能性を託した点においてである。》
《ある種の純化に向かうのだとはいえ、ブレッソンがカメラを廻せば現実そのものが撮れてしまうと考える素朴なリアリズムを信じていなかったのは明らかである。それだけでは自己保存されたイメージの時間の問題が抜け落ちてしまうからだ。そしてブレッソンが伝統的なカトリシズムの思考に接近するのは、まさにこのイメージの時間の問題においてである。撮影は「準備を整えるだけ」のことである。問われるべきなのは、撮影されたイメージが、その後どのような時間を生きるのかである。そこからイメージにおける「信」の問題が開けるのだ。》
《(ブレッソン『シネマトグラフ覚書』からの引用)すばらしい偶然だ、正確に作用する偶然とは。》
《この書物(『シネマトグラフ覚書』)において再三強調されていることだが、撮影されたイメージ断片の価値は編集した後にならなければわからないという、映画制作の根本的なジレンマとこれは関わる。先述したように、撮影は下準備であるにすぎない。なぜなら、イメージの密かな価値は、モンタージュの局面でほかのイメージと接触し交流関係に入ることによってはじめて現れ出るからだ。だから、或るイメージが前後の新しい文脈において「正確」に機能するのだとしても、はじめはそれが「偶然」撮られるしかなかった、ということなのである。》
《ここから有名なブレッソンの逡巡が帰結する。(…)『スリ』でヒロインのジャンヌ役を務めたマリカ・グリーンは次のように回想している。「ブレッソンは撮影の準備に長い時間をかけていたはずなのに、ショット毎に二〇回から七五回ものテイクを重ねる日々が続いた。視線、しぐさ、調子の厳密さのために、死の沈黙がセットを支配していた」。》
《(…)このブレッソンの逡巡の理由は、より本質的には、編集後に或る秩序のもとに置かれたときに帯びるだろうイメージの価値が予見不能であるというそのことにあると言うべきである。》
《撮影時のイメージ、すなわち「感覚」に与えられたイメージと、編集後のイメージ、すなわち「表現すべきオブジェ」とに映画監督は引き裂かれる。そしてこの間にこそカメラを用いる芸術、シネマトグラフの可能性はあるとブレッソンは考えるのだ。》
《(『シネマトグラフ覚書』からの引用)予見の力、この名を、私が仕事に用いる二つの崇高な機械に結びつけないわけにはいかない。キャメラとテープレコーダーよ、どうか私を連れて行ってくれ、すべてを紛糾させてしまう知性から遠く離れたところへ。》