2022/04/08

●『光りの墓』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)をブルーレイで観た。これはもう映画というカテゴリーでは捉えられない、まったく新しい何かなのではないか。昨日の日記で『ミークス・カットオフ』について《息を呑むような緊張で、息をつく余裕もなく》と書いたが、これはまったく逆で、「息を呑む」というような、ぎゅっと集中する瞬間を一切つくらずに、リラックスした状態のなかで、拡散的に、あらゆる要素に対して等しく漂うような注意を向けることが促される。空間も時間も、展開するのではなく漂い、移ろう。その状態が二時間ずっとキープされる。それは決して「緩く」もなく「薄く」もなく、「緊密」で「濃い」のだが、各要素の関係が求心的ではなくどこまでも拡散的に配置されているからだろう。

三浦哲哉の『映画とは何か』に、リュミエールがフランスで最初に映画興行を行った時に観客が最も驚いたのは「背景で風に揺れる葉叢」だったという話が書かれている。《曰く、スクリーンの後景で、誰に見られるために存在したわけでもない事物が、ほかのあらゆるものと同様に動いている。ゆらめきながら太陽光を反射させる葉叢、その在りようの精妙さを言葉で描写し尽くすことはむずかしい。(…)そもそも映画のイメージは、たとえば絵画におけるように人為的に再現されたものではない。カメラによって自動的に保存された光景は、勝手に---人間に対してなかば無関心に存在する。それら光景を見ることに固有の驚きがあり(…)》。最初に「これは映画とは別物」と書いたことをはやくも覆すようだが、以上のような意味でこの作品は、現代のデジタル技術を駆使することで得られたリュミエールへの回帰ということでもあるかもしれない。

(だがここで断っておきたいのは、アピチャッポンの作品は決して、「自然(現実)」を「自然に(自動的に)」捉えたものではないということ。それが捉えるのは、厳しく吟味(取捨選択)された対象(対象群)であり、その対象たちの関係は、人工的にコントロールされ、高度な複雑さをもって構築されている。そのような高度な構築によって、リュミエール的な「驚き」が再-構成されている、ということ。)

アピチャッポンの作品を観るということは、特定の何か(物語なり、メッセージなり、比喩なり、作家個人の記憶なり、土地の歴史や伝承なり、政治なり、クィア性なり、風景や光なり)を見るということではなく、それらを含めたあらゆるものたちが同時に存在し、調和したり、矛盾したり、争いあったりしている様、そのすべてというか、それらがそのような関係で成り立っているその総体である「環境」を見る(感じ取る)ということだろうと思う。あらゆる要素による複雑なネットワークであり、その推移である「環境そのもの」は決して見ることができない。だから、それらの要素すべてに等しく漂うような注意を最大限に向けろ、と作品そのものが促す。そこから、政治なり、死生観なり、クィア性なりを、特に取り出して強調してみせることは、それを取り出す側の恣意であり、取り出す側の欲望の反映だろう。しかし、それが間違った行為だということではない。アピチャッポンの作品という場は、そのような「取り出す側の恣意」をも受け入れているように思う。つまり「正解を探れ」というようなプレッシャーを観る側に与えない。温泉に浸かるように、ただただ美しい風景と音響に浸って癒やされたいという観客も排除しない。

あまりにユートピア的過ぎるということは言えるかもしれない。しかし、ディストピア的な環境を構築して批判してみせるよりも、絵空事としてであっても、ユートピア的環境(モデル)をつくりだす方がずっと難しいと思う。言い直せば、想像し得るほとんどのユートピア像からは、ディストピアへと一直線に向かう道が透けて見えてしまう。ディストピアへの芽のない(少なくとも目立たない)ユートピア像をつくりだすことは困難だ。しかし、アピチャッポンの作品はそうではないようにみえる。とはいえ、アピチャッポンの作品という場がつくりだすユートピア的な環境は、(「現実」にはあり得ず)「アピチャッポンの作品」としてしか成立しない絵空事かもしれない。しかしそれこそがフィクションの意義ではないか。ただ、「アピチャッポンの作品をまったく理解できない」という人は、このユートピアから排除される。しかしそれは弱点なのだろうか。

●映画のなかで、人がリアルに排泄するところを見たことが二回ある。一度目はヴェンダースの『さすらい』で、二度目がアピチャッポンの『光りの墓』だ。

『さすらい』のリュディガー・フォーグラーの排泄は実に立派で堂々としている。ここで、カメラの前で、そして、さえぎるものの何もない平原での排泄の意味は、隠すものなど何もないという攻めた開放性であり、ヌーディズムなどにも通じる、ある時代の革新的な思想的傾向のあらわれだと思う。対して、『光りの墓』の森の中での「野糞」は、森のなかで「隠れて」しているわけで、より生々しくリアルだ。これは、今でも(あるいは、アピチャッポンのかつての記憶では、ということかもしれないが)あの森の中で野糞をする人は普通にいる、ということのあらわれであり、つまり「野糞」は「あの森」という環境を構成する様々な要素のうちの一つなのだ、ということだと思われる。

同じ排泄でも、それが、どのような布置のなかでどのように配置されているかによって要素としての色調が異なる。