2022/04/07

●『ミークス・カットオフ』(ケリー・ライカート)をU-NEXTで観た。息を呑むような緊張で、息をつく余裕もなく最後まで観て、100分程度の映画だが、終わってどっと疲れた。『ウェンディ&ルーシー』の次がこの作品で、ここから少し作風がかわるのかなと思った。ピタッと決まった端正なカットを重ねる感じになる。

ケリー・ライカートの日本で公開された作品は全部観たことになるのだが、この作品は他とはやや違う感じがある。他と違って、この作品には骨太のドラマがある。決してドラマチックな演出はないが、淡々とつづく描写の下に、不信と迷いがあり、摩擦があり、対立があり、試みとその失敗があり、他者との出会いがあり、関係の変化があり、そして頑固な人物の改心がある、という意味で、はっきりとしたドラマとその展開がある。

それと、コスチュームプレイ(西部劇)であることによって、映っているものの具体性と同時に、一種の寓意性が孕まれる。三組の家族、三人の夫、三人の妻、一人の子供、そして先導者という組み合わせは、最小スケールの共同体をあらわすものであり、共同性というものが孕む様々な問題のモデルケースを提出する。

ミークという男に先導され、荒れ地をひたすら移動する三組の家族。最初は、彼らは集団でしかなく、誰が誰とも区別がつかず、ただ、馬車と馬と人々が荒野を歩く姿が描写される。夜は真っ暗で人の顔も見えず、まだ真っ暗な早朝から「まるで奴隷みたいだ」と言いながら働きはじめる妻たちは姿も見えずに、三つの焚き火の炎として示される。

荒野の行進、枯渇する水。昼と夜との交替、そして先導者への不信。最初にあるのはそのくらいのものだ。強い風が吹きすさぶ土地で、スカーフか何かを風に飛ばされて必死で追う女性が、この集団のなかでどのような位置にいて、どんな性質の人なのか、この時点ではまったく分からず、ただ集団のうちの一人である女性に過ぎない(後に、集団のなかの唯一の子供の母だと分かる)。しかししばらくすると、それぞれの人物の顔が見えるようになり、違いが識別できるようになる。しかしそれも、見た目の違いで個人として特定できるというくらいで、性質の違いのようなものはなかなかみえてこない。

ひとまとまりの「集団」のような人々に固有性が表れるのは、困難に対する態度の違いによってだ。あたかも水の在処を知っているかのように振る舞う先導者に導かれて到達した湖の水が、水質の関係で飲めないことが分かり、先導者への不信がますます深まるという時に、その後の方針に対する意見が分かれる。だがここでも、意見の違いによる固有性を主張するのは男たちだけで、女たちは、薪を拾ったりパンをこねたりする労働に従事するばかりで、依然として「女たち」である。

(女たちは、水を回し飲みしたり、料理を分け合ったりするが、それはあくまで「女たち」としての連帯の行為であり、外見や声などから感じられる雰囲気の違い以上の強い個別性は、前半ではあまり感じられない。女性の一人が、特に強めに先導者を嫌っているという描写はあるが。)

すべての登場人物に「困難への態度の違い」による固有性があらわれるのは、他者(先住民)との遭遇という、集団が直接的で強い危機にさらされてから以降だろう。まず、先住民を追い、捉えるという行為を担うことで、集団のなかから一人、リーダー格と言える男が浮上する(彼はいわば、保守的な先導者に対する、リベラルなリーダーと言える)。また、先住民をすぐさま殺そうとする先導者に対して、比較的若い男が、先住民と「取引」することを提案する。女たちもまた、先住民に積極的にかかわろうとする者、距離をとる者、強く恐れ、拒絶する者などに分かれ、固有性や主張が強く表れるようになる(ここでは単純化して書いたが、当然、先住民への態度は局面によって変化し、一様ではなく、ここに緊張感のあるドラマが孕まれる)。

集団のなかの一人の女でしかなかったある女(ミシェル・ウィリアムズ)が、他者との遭遇という大きな困難のなかで果敢に行動することで、強く自分の固有性を浮かび上がらせる(彼女の行為は、夫---リベラルなリーターだ---にさえ、先導者を嫌うあまりに極端に振れすぎているとされ、理解されない)。そもそも、先住民の徴候をみつけ、実際に最初に遭遇したのも彼女だったのだ。そしてそれによって生まれる、先導者、女性、先住民の三者の間に引き起こされる高い緊張関係。この緊張関係こそが、この映画のクライマックスを形作る。

だが、本当にシビアな緊張関係は、女性と先住民との間にのみ漲っている。やたらと威勢がよく強攻的だった先導者は、三者の緊張関係に耐えられずあっさりと改心する。そして、二人の緊張関係の行方は分からないままで映画は終わる。