2022/04/06

●引用、メモ。『映画とは何か』(三浦哲哉)、第二章「パザンのリアリズム再考」から。

●「想像的なもの」の自律(即自的存在)、としての映画

《パザンは、批評を書き始める一九四〇年代、三人の作家から決定的な影響を受けた。ピエール・テイヤール・ド・シャルダンアンドレ・マルロー、ジャン=ポール・サルトルである。》

《(…)シャルダン歴史観が「完全映画の神話」とその目的論においてはっきり一致するのは事実である。はじめから実現されるのを予定されていた理念がすべてに先行する。この宗教的時間論と映画の関わりはおそらくパザンのヴィジョンを理解するために最も重要な論点のひとつであるだろう。》

《強調しておきたいのは、「現実世界」とそれを「表象=再現前化」する「想像的なもの」とによって、世界がいわば二重化する事態にマルローが着目していた点である。世界をイメージとして写しとる「想像的なもの」あるいは「フィクション」が、「現実世界」と二重になり、そして保存される(美術館に、次に、フィルムの上に)。こうして、イメージの世界と現実世界とのある種の並行関係が成立する。マルローが論じたのは、この両者の関係が、歴史の進展に従っていかに変容してきたかである。》

《(…)パザンが「存在論」と言うとき、それはなによりもサルトルの著作を念頭に置いてのことであるだろう。ただし、ここでも強調しておきたいのは、サルトルにおける存在のイメージが、いわゆる素朴なリアリズムにおけるそれとは全く性格を異にするものであるということである。「想像力の現象学的心理学」の副題から明らかなように、これはなにより「想像力」をめぐる論考であり、イメージは想像力と結びついている。その思索は自らの意識作用の反省においてなされる。「想像的なもの」と「現実世界」には連続性があるのではなく、むしろ「想像力」は「現実」を否定し、「無」の上で作動する。サルトルの言う「想像的なもの」とは、それによって人間がこの現実世界の制約や条件を超越し、自由を実現するための足場とも言うべき領域である。》

《(…パザンのリアリズムが)ある芸術作品を現実とみなすという直截な鑑賞態度や、現実的であればあるほど望ましいというようなイデオロギーだけが問題であるわけではないのは自明であるだろう。「現実世界」に対してそれとは区別される「想像的なもの」をひとまず措定し、両者の一様ならぬ関係それ自体を議論の対象とし、吟味することが問題だったのである。》

《パザンは、人間の手を介さずにイメージをかたどる、その自動転写能力という一点に賭けることで、映画を『空想の美術館』からも『想像力の問題』からも異なる何かとして捉えようとした。すなわち、自動転写能力によって「想像的なもの」は自律する。自律とは、「主観性」や「意識」からの自律のことである。「想像的なもの」は、もはや人間の抱く心的表象であることをやめて、即自的に存在しうる。サルトルにおいて「想像的なもの」は意識の領分にあり、そのかぎりにおいて現象学的分析の対象となった。だが、パザンが思考しようとしていたのは「想像的なもの」が意識から自律し、それ自体で存続するという事態だったのである。》

●「魂の現実性」、そして映画の「神話論」と「記憶論」

《(…)「魂の現実性」とはなにを意味するのだろうか。『映画とは何か』の全体から読み取れるのは、それがもっと根本的な世界観の変容であるということではないだろうか。つまり、「魂」だと思われていた人間の内面が、いわば袋を裏返すようにして世界の現実に成ってしまう。その媒体こそが「フィルム pellicule」であるとパザンは言おうとしたのではないか。サルトルの主観的な現象学ベルクソンの客観的な知覚論の奇妙な接合も、その主張の結果、起きたことではないだろうか。そしておそらく、パザンの記述に含まれる矛盾こそが、映画がもたらした変容のインパクトを伝えているのだ。》

《パザンのいう「魂の現実性」は、神話論と記憶論によって二重に表現されている。大衆の心理の布置を視覚化したものが、現代の神話的存在である映画スターたちである。彼らのイメージはフィルム上で自律している。産業化した映画のフィルムがそのほとんど無際限の物量で世界を覆い尽くすことが、映画の神話の条件である。以上が「魂」ないし「心理」が現実性をもつということの第一の側面である。第二の側面は、とりわけドキュメンタリー映画において顕著であることだが、観客が見る映画のイメージは、いわば世界の皮膜であり、その即自的な過去である。世界の即自的な過去としての映画を、観客は見て自分の記憶と一体化させる。》

《映画とは、「現実世界」が光線と接する表面において「脱皮」した後に残される皮膚、それを自動保存する装置である。フランス語においてフィルムのことは「皮膚 pellicule」の語で示される。即自的過去としての世界の皮膜をつなぎ合わせたものがドキュメンタリー映画なのだ。》

《ここでもう少し検討したいのは、「魂の現実性」の二つの局面、すなわち神話論と記憶論がいかにして両立しうるかという点である。それは同じ「映画」なのだろうか。矛盾と逆説をあえて際立たせながらパザンはその映画論を構想したが、やはりこの両者も一見すると相容れないようにしか思われないのだ。(…)一方では、「想像的なもの」としての「神話」が映画において現実化すると考えられる軸があり、他方では、「現実世界」がまず存在し、それがイメージ化する軸がある。パザンにとって映画は、どうやらその異なる軸が交差する中間地帯において現れる複雑な織物であると考えられている。》

《(…)だからこそパザンは「弁証法」の語を用いる。両者が拮抗し具体的なかたちを持ちえたときに、はじめて映画は「魂の現実性」を帯びる。》

《第二に検討したいのは、時間軸における矛盾である。すでにあらゆる場所で撮られた即自的な過去としての映画という見立てと、「映画はまだ発明されていない」という「完全映画の神話」の目的論はいかにして両立するかという問いがありうる。》