●『ガッチャマンクラウズ インサイト』、第五話。ゲルサドラの首相当選を受けて、はじめがついに動き出す。しかも、ルイ(とカッツェ)を連れて理詰夢に会いに行くという、敵同士を結び付ける、まるで長老政治家みたいな動き方だ。
ポリティカルな物語において、敵と味方は確定されない。昨日の友が今日は敵だったり、敵の敵は味方だったりと流動的である。はじめが、敵同士であるはずのルイと理詰夢を会わせるという行動に出たのは、どちらにとってもゲルサドラ+つばさ+丈が「当面の共通の敵」であると認識したためであろう。もちろん、この敵/味方関係も、今後の状況により流動的であろう。
この作品では、個々の要素、登場人物、その思想は、極度に単純化、平板化されている。しかしそのことによって、各要素(あるいは人物・エージェント)間の関係の複雑さと流動性を示すことを可能にしている。個々のエピソードは(まるで風刺マンガ並みに)書き割り的でリアリティを欠くが、その関係のさせ方によって、ポリティカルな物語を可能にしている。抽象化によって政治性を示している。
(ここで言う抽象化とは、横光利一の「機械」や後藤明生の「笑い地獄」のような抽象性のことだ。)
ここにあるのは、抽象性と具象性の奇妙なハイブリッドだ。たとえばスガヤマ首相は、現実の日本の歴代の首相の誰にも似ていない。というか、特定の誰かを(特定の政党すら)連想させないように周到に造形(脱色)されている。彼は、クラウズを推進するという以外のイデオロギー的な色づけが感じられない一つの駒である(クラウズを推進するくらいだからリベラルではあるのだろうが)。しかし一方、首相が漢字を読み間違えてマスコミから非難されるというエピソードが、ほぼ「そのまんま」現実から引用されている。とはいえ、スガヤマはどのような意味でも――思想的な面では特に――麻生太郎的な人物ではないし、(ナマな)エピソードは固有の人物から完全に切り離されている。抽象性と、ナマ過ぎる程ナマな感じが短絡するこの妙なバランス感覚。
(あるいは、「ミリオネ屋」はあからさまに「ミヤネ屋」であるが、ミリオは一般化された役割としての扇動者であり、宮根という個とは関係がない。つまりこれは「風刺」ではない。)
この物語は、現実上の日本の重要な政治的問題(例えば、アメリカとの関係や原発など)にはまったく触れていない。にもかかわらず、この物語を流れる「空気」は、多くの人にとって現在の日本をリアルに映していると感じられるものだろう。この感じをつくっているのが、ハイブリッド化された妙なバランス感覚だと思われる。ゲルサドラ+つばさ+丈というトリオはいわば、共感的動員生成マシーン+素直でまっすぐだけどあまり頭のよくないようにみえる女の子+広告代理店的プロデューサー、というトリオとも言えて、アイドルをプロデュースするチームが首相になったという感じに近い(この首相公選には、クラウズの是非という以外の争点がない)。
この作品はポリティカルな物語であるが、「パト2」や神山版「攻殻」や「ガンダムUC」と違うのは、このような抽象性と具象性との短絡的ハイブリッドによって成立しているところだと思われる。ここで政治性を生むのはあくまで作品内で展開される関係の複雑さと軋轢であり、それは現実の政治的課題(政治的対立)を直接映すものではない。主題となっているのは政治的主張ではなく、現代のテクノロジー的な「環境」のありようであり、そのなかで生じると予測される問題と、それに対処する思想的な立ち位置の対立であろう(「クラウズ」では、純粋な「破壊」への衝動にどう対処するのかが問題であったが、「インサイト」ではすべての人物が「平和(構築)」を願って対立している)。作品の内的関係性の抽象的な複雑さにリアリティを与えているのは、(「現実」との対応関係ではなく)各登場人物がもっている思想のリアルさだ。というか、一人一人の思想は単純化されているが、その配置と緊張がリアルであると言うべきか。ここには、人間ドラマのようなものはまったくないが、思想間に生じる政治的緊張の(抽象的な)現実性がある。
たとえば「ガンダムUC」では、バナージ対フルフロンタルという思想的な対立の軸がある。だが「インサイト」ではそれが二つの軸には還元されない複数のエージェント(要素)に分解されている。バナージによって担われていた役割は、「インサイト」では、はじめ(枠を越えて人をつなぐ力)、つばさ(若さ・愚直さ)、ルイ(理想・理念)の三人によって分け持たれている。そして、フルフロンタルの位置にいるのが、ゲルサドラ(共感・人々の思いの器)、丈(現実的妥協点の導出)、理詰夢(策略・操作)の三人であろう。複数のバナージ、複数のフルフロンタルの絡み合うより複雑な思想対立(としての政治的物語)が生じている。たとえば、ゲルサドラ首相が危険であるとしたら、それはゲルサドラ(あるいは、つばさ、丈)というエージェントがそれ自体(単体)として危険なのではなく、ゲルサドラ+つばさ+丈という「結びつき方」が危険なのだ。はじめは、この「結びつき」に対抗するために、ルイと理詰夢という敵同士の間に通路(別の結びつき)をつくろうとする。「インサイト」がポリティカルな物語であり得るのは、このような細かい関係性の力の動きを(現実の反映としてではなく、抽象的に)捉え得ているからだと思う。
(そのかわり「UC」を彩った、多数の魅力的なわき役たちのつくる厚みはこの作品にはない。とはいえ、例えば理詰夢という人物は、クラウズを出現させる能力をもちながらクラウズを否定し――つまり自分自身の能力を否定し――クラウズを否定するためにクラウズを使う、という非常に屈折したあり方をしていて、とても興味深い人物ではある。あと、パイマンと清音がとてもいい味を出している。この選挙戦では、パイマンのみが正論を言っていて、そしてまったく無視されている。)
●『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』、第五話。ここまでくると、アンナこそが真実を求める偉大な求道者であるように思えてくる。
アンナは、知識を徹底して剥奪されながらも、「自分の身体的反応」だけを頼りにして真実に到達しつつある、偉大な探求者なのではないだろうか。そして、彼女こそが誰よりも強く享楽を得ている。ただ、彼女の探求は、知識を完全に剥奪されたなかで行われる孤独な探求なので、他者との間に共通言語をもっていない(持ち得ない)、ということなのではないか。
アンナと対照的に、悟性によって、ただ悟性のみを頼りにして真実に迫りつつあるのが、科学部の部長(不破)なのではないか。そしてもう一人、芸術家としての直観によって、アンナのなかに「真実に迫りつつある生々しい何か」を敏感に察知した早乙女がいる。
三人の果敢な探求者たちに比べ、テロリストである綾女や狸吉は、なまじ知識を所有しているが故に、認識としても実践(享楽)としても、彼女たち三人に対し大きく遅れをとっていると言えるのではないか。とはいえ、彼女たちの探求は、綾女や狸吉の「啓蒙」に大きく助けられているという側面もある。