●『ガッチャマンクラウズ インサイト』最終話。うーん、ぼくはこの終わり方には納得できなかった。半分しか納得できなかった。ここまではすばらしい展開だったので、残念です。
この物語には二つの軸があると言える。つばさ-はじめの軸と、理詰夢-ルイの軸。そして、「インサイト」は「クラウズ」への批判的問いかけの物語だと言える。単純化すれば、つばさによるはじめへの批判と、理詰夢によるルイへの批判だ。そして物語は、理詰夢によるルイへの批判からはじまった。
この最終話では、つばさ-はじめの軸としては、ある回答を提出したと言えるが、理詰夢-ルイの軸としては、何の回答も示さないままで終っている。ルイは、理詰夢からの問いかけに応えてはいない、あるいは、応えの部分が抜けてしまっている。終わり間際に、くうさまとクラウズとが「仲良くケンカしている」とでも言える場面がある。それを梅田父娘とルイが見ている。この場面、このイメージは、この作品の締めくくりとしてとても素晴らしい。しかし、このような場面が可能になるためには、つばさ-はじめによる、11話と最終話の行為だけでは足りず、理詰夢に対する、ルイ(+X)によるなんらかの回答が必要なのではないか。
(理詰夢は、今回のはじめのやり方に感心したかもしれない。しかしそれは、はじめも――自分と同じように――「多」を制御し得る優秀な「個」であると認めただけではないか。)
つまりこの最終話では、個別の事件としての「ゲルサドラ事件」の解決にはなっていても、理詰夢によって提出されたメタレベルの問題、あるいは思想の問題である「多の制御/多の可能性」という次元に対しては何の見解も示されていないのではないか。
はじめとつばさの関係は、いわば先達者と後継者の関係であり、師匠と弟子の関係とも言える。つばさ(という存在)によるはじめへの批判と書いたが、それは、はじめ自身がつばさのなかに自分を見出だして反省(熟考)するという過程でもある。そしてはじめは、つばさへ、そして自分自身への回答として、ある行為を選択し、そしてそれはつばさに何かを伝え、つばさや自分自身も変化させた。ここにあるのは魂の継承のようなものであり、「ユリ熊」で、紅羽と銀子との関係が、撃子とこのみとの関係へと継承されることと似ている。だがこれはあくまで、個と個との間に起こる「個別の出来事」であろう。
しかしこの作品にはもう一つ別のレベルがある。それは社会的なレベルであり、社会の改革を志すルイと、それに反対する理詰夢との対立によって表象されている。「クラウズ」では、百人の精鋭が、三万人の匿名の悪意に対して無力である時に、完全に開かれた一億人による自発的な参加が、事態の回収を可能にした。この解決法に様々なツッコミはあるとしても(「インサイト」という作品もそのツッコミの一つであろう)、これは個別の事件の解決であると同時に、社会とテクノロジーの可能性に対するこの作品による独自の新しいヴィジョンの提出であり、一つ思想の提示であった(「多」の新たな可能性の提示)。これはある意味では、2ちゃんねる=ベルク・カッツェが、SNS=クラウズに敗れて衰退してゆくという出来事と重ね合わせられる。
それに対して、「インサイト」の基礎になる「空気」は、「そうは言っても、SNSの空気は息苦しいし、ツイッタ―での罵倒や炎上は2ちゃんよりも酷いし、なんかヤバい感じじゃないの」となろう(「インサイト」でのベルク・カッツェの不思議な存在感は、「かつての2ちゃんの罵倒は醜いものだとしてもそれなりに芸があったのに、ツイッタ―では皆平板化して……」みたいな感覚と重ねられる)。で、この問題意識に対する対処法が「一人になって考えよう」「すぐに反応しないで時間をかけて考えよう」というのでは、間違ってはいないのかもしれないが、言うだけなら誰でもが言えるたんなる常識であり、分かってはいるけどその実行が難しいからこそ問題なのではないか。「たとえ孤立してでも熟考する」を実践するためには、皆がはじめと同じくらいの「強い個」でなければならない (「一人になる」「時間をかける」ための具体的な方法やヴィジョンが示されれば別だけど、「深呼吸」以外には示されないし……)。
問題なのは、これが制度やテクノロジーと関係のないあくまで「個人の心がけ」でしかないことだ。個々の自覚のレベルと、それが「多」として集まった時にどう作用するのかでは、別の様相になるはずだ。個を多へと媒介する、社会、テクノロジー、メディア等のあり様こそが問題であり、それをどう考えるのか、どのような媒介のあり方が望ましいのか、が、主題(の少なくとも重要な一つ)であったはずなのに、媒介への思考がなくなって、いきなり「心の持ちよう」みたいな話に落とし込まれてしまう。さらに「みんなが敵」「みんなが目覚める」という時の「みんな」は、「みんな一つになる」の「みんな」とまったく同質であり、「多」の捉え方の質的変化が起きていない(「クラウズ」における、百人の精鋭→三万人の匿名的悪意→開かれた一億人の自由参加という展開では、それぞれの段階において「多」の捉え方に質的変化が起きている)。
スマホ投票をすぐには行わないで一か月先に延ばす。確かにこれには一定の効果のある「具体的な例」だろう。しかしこれだけの制度上の工夫で、理詰夢の懐疑がなくなるとは思えない。「ゲルサドラ事件」に関しては、はじめたちの活躍によってなんとか収めることが出来たとしても、「多」の暴走の危険性そのものが減少したというわけではない。
「多」を「制御する対象」ではなく「積極的な可能性」としてみることを可能にするための具体的ヴィジョンが示されていず、従来通り(よくある物語通り)に「個」が称揚されるだけで、しかしその「個」はそもそも「みんな」という形で表象されるような「個」であり、そこに多様性が潜在されているようには見えない。さらに、スマホ投票で示される結果は、ゲルサドラを受け入れるものと排除するものとほぼ半々であり、ここには重大な分断と対立が生まれているとも言える。多様な差異がきちんと表象されているのではなく、敵か味方かの二項対立になってしまっている。
要するに、理詰夢の問いかけ(問題提起)を、それを受け止めるべきルイが(そして「この作品」そのものが)真面目に考えようとしているとは思えないまま終わったことに、ぼくは納得ができない。ここでルイがなんらかのヴィジョンを(そのほんの一端であっても)示さないと、もともとあったクラウズの思想さえうやむやになってしまうように思えた。
(この作品が、何かしらの新たなヴィジョンの提示ではなく、たんなる現実の反映、あるいはせいぜい風刺でよいというのなら、ある程度はリアルだと言えるかもしれないが。)