●『ガッチャマンマンクラウズ インサイト』第9話。リアルな恐怖。しかし、「空気」の怖さは、みんなが一斉に極端な方向に走る、というのは違うということが示されているのが興味深い。例えばガッチャマンは、ゲルサドラを捕えようとすることで「空気(≒くうさま)」を敵にまわすが、しかし一方、ガッチャマンのやり方に腹を立てて、ガッチャマンに殴り込みをかけようとする人もまた、「空気」を敵にまわすことで排除されることになる。「空気」には思想がなく、ただ極端さを嫌う。
「空気」は同調を強いるが、「祭り」とは違って、人々を集団的な熱狂へとは導かない(祭りと炎上のキャラであるベルク・カッツェに対し、空気のキャラであるゲルサドラは争いを好まない)。だから「空気」は、(個を排除するとしても)おそらく世界を破滅には追いやらない。それは、世界を肯定し、平穏と平和を望む。ただ、世界をどんどんと息苦しいものにしてゆき、ゆっくりと衰弱へと導くだろう。だから、理詰夢の言う「サルの安楽」は長続きしない。当初は平穏と肯定をもたらす「くうさま」を好意的に受け入れた人々も、すぐに疑問を感じるようになり、疑問はまたたくまに恐怖にかわるだろう。自分がいつ排除される側にまわるか分からないから。それどころか、誰にとっても望ましくないことが誰の目にも明らかな結果が導かれたとしても、それが「空気」の決定ならば誰も否定できなくなる。
しかし、いったんインストールされた「空気(くうさまの蔓延)」を解除することは困難だ。それが何であるにしろ、「既に受け入れられている何か」に反対しようとする時、その動きはすぐさま「空気」にチェックされ、それが大きく育つ前に排除されてしまうのだから(だが少なくとも、「空気」が支配する場では「炎上」は抑えられるのではないか、だから、カッツェはゲルサドラを恐れているのではないか、あるいは「空気」と「炎上」は裏表で、耐え難い「空気」こそが――空気の目を盗んだ場所での――「炎上」を必要とさせるのか、だがそもそも「空気の目が届かない場所」がどこにもないとすれば「炎上」も可能ではない)。
何の前触れもなく、ある時とつぜんに、「空気」に対する反対派が過半数を越えるというような「相転移」が集団のなかに起こらない限り、「くうさま」の支配の解除は考えにくく、空気は常に自分自身を肯定し、再生産しつづけるだろう。
(空気を批判するのは簡単だが、それを解除するのは恐ろしく難しく、そもそも「個」の努力ではどうすることもできない。)
前にも書いたが、集合知は、個々の多様性が充分に確保されている時にのみ有効に機能する(差分こそが集合知にとって重要なのだから、この点についてはジェームズ・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』、あるいは西垣通集合知とは何か』を参照)。そういえば『一般意思2.0』には、ルソーは一般意思を求める時に合議を禁じていると書かれていた(ルソーは「政党」をも否定している)。つまり、個々の多様で身勝手な意思が、周囲とのすり合わせを経ずに直接的に集計されなければ一般意思は算出されないのだ、と。だがそれは単純な直接民主制を意味するのではなく(集合知は、たんなる多数決とも「三人寄れば文殊の知恵」とも違う)、ルソーは今日的なビッグデータの思想をもち、合議(熟議)ではなく集合知による統治を考えていた、と。
当初の、議会も役所も切り捨てたゲルサドラ首相はルソー的な人物であり、彼がビッグデータ解析マシンとして機能していたのは、一人一人の心を個別に直接的に吸い上げて集計することで「一般意思」が導出できたからだと言える。だが、ゲルサドラの思想はルソーとは異なり、彼の願いは「みんなが一つになること」である。しかし「一般意思(≒ビッグデータ解析)」では、みんなが(少なくとも表面上は)「一つではない」からこそ意味がある解が導かれる。そう考えると、ゲルサドラが深く悩んでいたことも肯ける。いくらがんばっても、その方法では彼の思いは実現されない。
そこでゲルサドラは、全体を一気に一色にまとめるのではなく、様々な個別的でローカルな場面で、それぞれ、その場の色を一色に染めることを促し、それに著しく反する者を排除する装置(くうさま)を日本中にくまなくばら撒くという新たな戦略を、無意識のうちにあみ出したということだろう。これはある種のウイルスでもあり、社会的関係性のなかにいったん受け入れられてしまえばそれを解除することは困難になる。「くうさま」は明らかに「ゆるキャラ」を模したもの(誰かが何かに「かわいい」という感情-愛着をもつことに対しては誰もそれを否定できない)であるが、それは同時に、日本中のあらゆる場所に無数の「簡易版ミリオ」を配するようなものでもあるだろう(あらゆる場のバラエティ化)。このアイデアは、「ミリオネ屋」に出演した時にヒントを得たものかもしれない(ゲルサドラは体型としてもミリオを模倣している)。
●「クラウズ」も「インサイト」も、とても抽象度の高いフィクションであり、ポリティカルな寓話的シミュレーションとでも言うべきもので(その意味では「ユリ熊」に近い)、そこを理解せずに、現実的な政治や世情の、素朴な、反映、批判、風刺として見てしまうと、幼稚で薄っぺらなものにしか見えないだろう。
(例えば「攻殻機動隊」では、インターネットや情報技術によって意識化されるようになった――近代的な群衆というような概念とは異質な――「多」をどのように表象するのかという課題があったと言える。しかし、物語としては、たしかに「多」を背景にもち、「多」との繋がりは強く有しているとしても、「多」から自然発生的に湧き上がった「強い個」たちの戦いが焦点となっていた。「笑い男」は無数の模倣者を出し、そもそもオリジナルだと思われた者も模倣者に過ぎなかったし、結局権力に利用されただけとも言えるが、しかし、最もすぐれ、最も独創的な模倣者が、事実上はオリジナルと言える。そして九課の面々もみな「強い個」をもつ。しかし「ガッチャマンクラウズ」では、そのような「独創的で強い個」を介さないで、捉え難い「多」に現代的な表象を与えようというモチーフがあるように思われる。そのために、独自の抽象性と、人物や場面の平板な記号化、独自の物語構築が試みられていると思う。)
ただ、そうは言っても、個々の細部が時にとても生々しくリアルなので、現実の反映や風刺のようにみたくなってしまう感じも分からなくはなくて、作品に対する距離の取り方が難しいとは言える。
例えば「くうさま」の口調。「かたいこと言うなよぉ」「なに熱くなってだよぉ」「そんなこと言うなよぉ」。こういう言い方でまとわりついて支配しようとする人って、リアルにこういう口調だよなあと、鳥肌がたつ感じ。
もう一つ、パイマンの愚かさの描写の容赦のなさ。彼は決定的に物の見えていない人物で、しかも、自分が何も見えていないことを少しも自覚していない。常に見当外れのことばかりを言いつつ、しかも他人の意見にはまったく耳を貸さない。おそらく人の言う事を聞いてもちゃんと理解できないのだ(こんな人がリーダーなのに成立しているガッチャマンというチームは、まさにスタンド・アローン・コンプレックスなのだと思う)。ここまで容赦なくダメな人として描かれているパイマンは、しかし基本的に善意の人であり、まったく悪い人ではない。だから、何だこのバカは!、と言って罵倒したり嫌いになったりして済ますことができない。なのでモヤモヤして、あー、こういう人いるなあ、でもそこまでひどく描かなくても……、容赦ないなあ、と思う。
(パイマンはガッチャマン・チームのなかで明らかに「お荷物」でしかないのだが、このようなお荷物の存在がなんとなく許されている組織というのは、いい組織なのではないかと思う。)
●清音の目覚め、丈の独断先行の失敗(この人はいつもこのパターン)、つばさとゲルサドラの決別、理詰夢の再始動(ルイが眠りに入ると理詰夢が目覚める)など、登場人物たちが大きく動きだした。くうさまに埋もれたルイに向けて「ルイ…」という切ない声を発するXも動きだすような感じ。理詰夢にはどのような策があるのか。つばさは長岡で何を得られるのか。ルイは何によって目覚めるのか。梅田さんの動きも気になる。いまのところ熟考と媒介に徹しているはじめはどうするのか。物語が大詰めに入ってきた感じ。