●『攻殻機動隊 ARISE』のシリーズは一通り観ていると思っていたのだけど、調べてみたら、四つ目のエピソード「Ghost Stands Alone」を観ていないことが分かった。五つ目のエピソード「PYROPHORIC CULT」を観た時に、え、ホズミ大佐って誰だっけ、みたいな記憶の抜けというか、分からない細部がいくつかあって、真面目に観てないから忘れちゃったのかと思っていたのだけど(この時点では遡って調べるほどは関心がなかった)、分からなくて当然だった。
で、「Ghost Stands Alone」をDVDで観た。これは「新劇場版」と、主題的にも、トーン的にもかなり繋がっている感じで面白かった。「ARISE」は面白くないという印象がこの二作でがらっと変わった。この二作はかなり充実していると思う。
「ARISE」は草薙の出自の物語であり、出自との決別の物語でもある。草薙には二つの出自があり、一つは501機関という、軍事用の特殊義体を開発する機関であり、もう一つは、身寄りのない子供を電脳化し、専門的な電脳技術を教えている施設のような場所。前者で兵士として、後者でハッカーとしての教育を受けたと言える。出自との決別=自律の物語であるから、出自と戦う話になり、敵はいつも自分の分身か鏡像のような存在であるという「攻殻」のパターンと合致する。
(草薙が「新劇場版」で繰り返し「戦争は終わった」と発言するのは、「自分はもう軍には属さない」という宣言でもあろう。)
とはいえこれは、自分探しの物語というより、事件は、社会的、政治的、経済的に入り組んだ状況のなかで起こり、事件を追ってゆくうちに自らの出自に突き当たる。つまり、草薙は自分自身が、軍需産業をめぐる様々な金と力の絡み合いのなかから、まさにその効果として生まれたことを自覚する。自分が状況の産物であることを強く自覚するからこそ、ゴーストの不可侵性や立場の自律性を強く求めていると言える。そしてその草薙が自分の自律性をもっとも高く保てる場として選んだのが、荒巻の下で、つまり国家の元で、攻勢の犯罪捜査機関の一員として働くことだった。革命家でも政治家でもなく。つまり、この現実のなかで、現行の国家や法の下で、犯罪を阻止するために働くことだった、と。
「Ghost Stands Alone」では、ゴーストの唯一性、不可侵性を強く信じる草薙の前で、二つのゴーストが融合するという出来事が起こる。しかもこの融合は、敵対する二つの陣営に属する者たちの間で起こる。この二人、エマとブリンダは、立場としては草薙に近く、状況に強く囚われた存在であり、彼ら(エマとブリンダ)が敵対しているのは、たまたま囚われている陣営が違ったというだけのことだった。そして、彼らが「状況への囚われ」から自律するために選んだ道は、草薙とは真逆の方向(この世界からの脱出と、ゴーストの融合)であった(彼らはそもそも、個が希薄な病気だったということもあるが)。この構図が「新劇場版」でも踏襲され、拡大されている。「Ghost Stands Alone」では、草薙は、必ずしもエマたちと敵対しているわけではないが、草薙は明らかにエマたちの存在に対して苛立っている。しかしこの苛立ちは、草薙の信念の揺らぎを表現している。
「新劇場版」の「敵」には思想がない。つまり、この世界を変えようという気がはじめから無い。「敵」の目的は、現実がどんな状況になったとしても「生き残る」ことであり、生き残りさえすれば、自分が誰であろうと関係ないという過激さがある。「敵」は、草薙素子になることによって、生き残ろうとした。これは、ゴーストの唯一性(「このわたし」性)にこだわる草薙とはまったく違う。「生き残りさえすれば自分が誰であってもかまわない」というのが、思想と言えば言える。これは、草薙が「ゴーストにシリアルナンバーをつけて売り渡す」と言って嫌う資本主義と技術の癒着と親和的だが、それを突き抜けて先まで進む。個を尊重しないこの原生生物的な思想が、最終的には、生き残れるのであれば「この世界」でなくてもかまわないという結論に行き着く。
(これは、「個別の11人」で、クゼが難民たちを救う「最後の手段」として意識のアップロードを考えたのとは異なり、ある思想が行き着く必然としてそうなったと言える。「新劇場版」にはクゼのような個が立った思想的指導者はいない。辛うじて、荒巻がそうだと言えるかもしないが。)
攻殻」にはあきらかに「心身問題」「このわたし」というとても抽象的な主題が強くある。しかしその抽象的主題が、社会的、政治的、経済的な、力の絡まり合いによる世俗性の高い物語のなかから浮かんでくるようになっている。この両者をつないでいるのが、義体化や電脳化といった高度なテクノロジーだろう。これは逆から言えば、この世界のテクノロジーが高度になれば、誰もが心身問題のような抽象的な問題に直面せざるを得なくなるということだ。「そんな抽象的で小難しい哲学など、生きてゆくのに何の役にも立たない」とは、誰も言えなくなる。そしてもう一つ、抽象的主題と世俗的物語をつないでいるのが、ロジコマ(タチコマ)という存在だろう。まさにティンマン(ブリキの木こり)のようなこのキャラが出てくると、ほとんど無条件に感動させられてしまう。
(テクノロジーが面白いのは、一方に科学に基盤をもち、他方に資本に基盤をもち、その両者がなければ成り立たないというところだろう。)