●U-NEXTで『フリクリ』の1話から6話までつづけて観てしまった。毎月、定額支払って見放題というのは、いくらでも観てしまってやばい(U-NEXTは完全に見放題ではなく、見放題の作品と、その都度ポイントを支払って観る作品とに分かれているのだけど)。しかも、DVDよりもずっと画質がよい。
●主人公の小学生、ナオ太は、謎の女性ハル子のベースギターで殴られることで、頭から角を生やす。この角はあきらかに、上半身と下半身とで反転した勃起した男性器であり、普段は絆創膏や帽子によって隠される。しかしナオ太の感情がある閾値を超えて操作不能なまでに高まった時、角はさらに巨大化し、そこからロボットを排出する。つまり、上下反転して頭から生えた男性器がロボットを出産する。これは、頭の中にあったものが外化されるということだ。それはナオ太の頭の中から出てきたものだが、すでにナオ太から切り離された別の存在である。ここで面白いのは、自分の頭のなかから産出されたロボットの内に、ナオ太が再び取り込まれるという事態に発展することだ。自分の内側から出てきたものの内側に取り込まれる。自分の頭の中から出てきたはずだが、すでに自分の制御をこえた強い力を持ってしまっているモノに食われる。ナオ太はまさに、外化された「自分の頭の中」に食われてしまうのだが、内から外化されたものの内に再度入り込むことで、子供だったナオ太は思いもしなかった能動力をもつことになる。内の内に入り込むことによって、外への力(能動力)を得る。
ここでは、上半身と下半身、男性器と女性器、内と外という、複数の対照的二項の、交差的な反転がみられる。
ここでナオ太とは、彼の内側にあるものでもなく(ナオ太の頭のなかはナオ太自身よりもずっと大きく、宇宙につながっている)、ナオ太の外にある現実的な環境なのでもなく、その界面にあるもののことだ。だから、内側から出てきたものの内側に取り込まれることによって自分を変化させ、外への能動力を得ることができる。
(これはまさに、自分たちの頭のなかから出てきた「エヴァ」が社会的に予想を超えた力をもち、その強大な力に自分たちが飲み込まれていき、しかし同時に、社会的に可能なことが増えるという、ガイナックスの人たちの素朴な実感の表現でもあるのではないか。)
一方、委員長のニナモリは、内側にあるものと外的現実との軋轢を、「演じる」ことによってうまく調整している。彼女の創造性は、頭のなかに強力なロボットをつくりだすことにあるのではなく、はじめから、内界と外界のと界面の調整(役割=フィクションを演じること)にある。創造性は直接、内と外との界面(=表層)にあらわれ、界面において造形される。ニナモリが演劇にこだわるのは、彼女自身の居場所は演じられたものの中にあり、役を作り、虚構の型となり、それを演じることを通じて外的現実に対する能動性を得ているからだろう。
ニナモリの内側(頭の中)にあるものは、ロボットのように造形されたものではなく(造形されたものは「界面」にあらわれてくるのだから)、不定形などろどろとしたものであるはずだ。だから、ニナモリにおいて重要なのは何かを産出(出産)することではなく、「排泄」することだ、ということになる。ニナモリは、演じることを通じて昇華し切れなかったもの、創造的な形象化からこぼれ落ちた残滓のようなものをただ「排泄」する必要がある。よって、ニナモリの頭から生えてくるのは、排泄という機能のみに特化した怪物である。ニナモリの回(三話)に、スカトロジー的なイメージが散見されるのはそのためだろう。
そしてマミ美。彼女は、自分の内側にある「あふれ出てしまいそうなもの」を、外側に発見された対象のなかに見いだす人だ。その対象は、たっくん(ナオ太、猫、ターミナルコア)だったりカンチだったりする。ナオ太において、内側が外側に反転するのに対し、マミ美においては、外側に内側を見いだすことで内と外とを反転させる。そしてマミ美の内側にある「あふれ出てしまいそうな感情」は、それと同一化される対象としてターミナルコアを見いだしてしまうことよって、それとともに、抑制不可能なくらいにどんどん大きく育ってしまう。
マミ美の「外にある内」である、制御不能に育ったターミナルコアと、ナオ太の「内の内としての外」であるロボット(と、ハル子のペア)とが、ともに「外」において激突し、ターミナルコアが破壊されることで、(ニナモリが「排泄」によって一つハードルを越えたように)マミ美もひとつのハードルを越え、別のものへと変化していく。