●『群れは意識をもつ』(郡司ペギオ-幸夫)を読み始めた。第一章を読んだ。以下、メモ。
≪(…人工知能の研究は)いわば知能とは何かという本質論を棚上げにしながら発展してきた。しかし、まさに棚上げにしたことで、知能とは本質によって規定されるべきではない、という描像が広範に受け入れられ、多様な知能モデルの出現をもたらした。近年になって、身体化された知能、群れとしての集合知という知能モデルが提唱されるに至り、意識と群れとの関係は、知能と群れとの関係に置き換えられて議論されてきた。≫
例えば、単体としては非常に単純な移動のプログラムしかもたないアリロボットが、多数の個体による集団として、非同期的に動くことで、ある空間内のパターンを発見する働きをもつということがある。
集合知とは、一つ一つでは知的判断のできない単純な虫(スウォーム)ロボットが、集団として振る舞うことで知的判断を可能とする、そういった知能モデルである。とくにロボットがすべて同じ判断機構をもち、群れとしての振る舞いに知能が見出せるとき、スウォーム・インテリジェンスという言葉を用いる。(…)各個体は単純な、局所的規則で歩き回るにすぎないが、集団として空間全体の探索を可能にする。(…)集団であることによって初めて、パターンを発見する知的計算が実現したと考えられる。≫
上記のようなことが言える時、例えば、個々のアリロボットを動物における神経細胞のようなものと考えてよいのだろうか。ここで面白いのは、アリロボットによる空間の探索において、人間の目(網膜)が起こす錯視と同様の錯覚が起こるという点だ。どちらも、有限数の割合単純なエージェント(ロボット・神経細胞)によって、無限とも言える多様性をもつ環境空間を縮約して探索するという点で等しいので、同様のエラーが起こる。人間の網膜は、アリロボットの群れと同じような意味で「知能」をもつ。
ここで、群れを一つの身体と考えた場合、個々のエージェントの集合としての身体‐群れ(群れ‐身体がモノの集合としてあらわれている状態)を「身体スキーム」と、一つのまとまりとしてある身体‐群れ(群れ‐身体という出来事---コト---が起こっているという状態)を「身体イメージ」としてみる。つまりこれは「群れ」における「心(コト‐イメージ)身(モノ‐スキーム)問題」だと言える。
≪この身体スキームと身体イメージの関係は、動物の群れにおいてどのように見出せるだろうか。モノがコトを凌駕する状況は、一つの方向性をもって一貫した動きをする群れが、バラバラに崩れていく瞬間であるだろうし、逆に散開した個体がまたまとまって一つの運動形態をもった群れを形成する瞬間は、コトがモノを凌駕していく状況だろう。ただし、このような変化が許されるには、バラバラな集団(モノ)にあっても、集まるべき一つの集団(コト)であるという前提が必要となる。それはモノとコトの未分化性を前提とすることだ。群れはバラバラな烏合の衆(モノ)でありながら、同時に一個の集まるべき全体(コト)である。この未分化性が分化した刹那、両者の統合不可能な両義性が見出されることになる。≫
コトとモノとは、未分化であり、しかしそれは分化するもので、分化してしまえば統合不可能であり、とはいっても両義的である。そしてこの本では、このような群れとしての身体においてこそ、デカルト的なコギトが発見される。
≪これはまさに、哲学者ルネ・デカルトの示した主体、コギトの構造ではなかろうか。「我思う、故にわれあり」。「我思う」瞬間、思われるモノとしての私と、思うコトしての私の対が形成される。そして、「故にわれあり」によって開設される私は、両者の接合的全体としての「私」(=コギト)なのである。≫
個の集まりなのか一つの集団なのかよく分からない未分化な「何かの集まり」のなかに、「我思う」が立ち上がることで、一つ(思うコト)としての群れと、個の集まり(思われるモノ)としての群れという二つの相があらわれ(分離し)、それにつづく「故に我あり」によって、その接合的全体として(一つ---コト---でもあり、集まり---モノ---でもある)群れ=コギトが開設される。ここで、最初にある「未分化な何かの集まり」はモノでもなくコトでもなく、事前には規定できない「X」としてしか示すことができない。おそらく「X」をモノとすれば唯物論に、コトとすれば観念論になる。しかし、「我思う」が立ち上がらなければ「X」はモノでもコトでもない未規定性に留まる(これは例えば、人工知能の研究において、研究の前提として「知能とは何か」を定義することが出来ない---しない---ことが重要であったことと関係するように思う)。
≪(…)このフレーズは、モノとしての私とコトとしての私の未分化な相にも気づかせてくれる。なぜなら、私が私について思い、モノとしての私とコトとしての私への分化を、顕在化させたことによって、両者を接合した「私」が発見されるのであって、私が私について考える以前、モノとコトはむしろ未分化で、区別されてすらいないからである。だからといって、この「私」は一元論を意味するものではない。あたかも独立のように見え、かつ相互作用しながらも統合を許さず、ひとたび区別の下で理解されるなら、接合としか見えないような存在様式のもとで存在するのである。≫
しかし、では「X」という未分化を、モノとコトという二つの相へと分離する「我思う」という出来事は一体どこからどうやって湧いて出てくるのか。それはこの世界、ここにある環境によって生じるのだ、と言うことになるのか。
≪「私」は考えるという出来事を媒介として、モノとコトの両義性を露わにする。身体スキームと身体イメージは、肉体を通してその両義性を露わにする。動物の群れは、おそらく、自らが適応してきた環境を通して、モノとコトの両義性を露わにすると思われる。≫
●では、ここで言われる「環境に適応する」というのはどういうことか。
例えば、「群れ」を形成するアリロボットはあらかじめプログラムが組まれており、それ以外の行動は行わない。ならば、設計者によってあらかじめすべて定められているようにも思われる。しかし、現実に与えられる個別状況の全てを設計者が想定することは出来ない。そこで、想定外の事態が生じて群れ‐システム(知能)が適応困難となった場合、≪システムの想定外部をその内部へと繰り込める≫ような自己組織化するシステムが必要となる。そのような群れ‐システム‐知能には、環境が適応に対して良いものか悪いものかを評価する評価軸と、その評価軸と相関して働く、変えるべき規則を変え、保存すべき規則を保存する仕組みが必要となる。しかし、そのような都合の良い相関的な仕組みを(環境の変化を想定できないのだから)あらかじめつくっておくことなど出来ない。
≪自己組織化する、適応的システムを実現する一つの方法は、システムにとっての適応評価の代わりに、システム内のもっと局所的な評価を、規則の変化に連動して組み込むことだろう。適応的評価とは通常、システム全体の機能に対する評価だ。完成した全体に対して評価するため、ここでシステムの内部を変えると、逆に非適応的振る舞いが出現し、システムが破綻する可能性も大きいのである。局所的な評価とは、システム全体の関係に依拠しない部分と部分の関係だ。ある部分と隣接する部分との関係のみの辻褄を絶えず合わせる。わずかな関係が絶えず変更されるだけであるにもかかわらず、それはある時、大きなシステムの変動、規則の変化をもたらす。こうした変動を実現するには、想定内で留めることと、想定外を内部へ繰り込むことの区別を不明瞭にすることが必要となる。≫
つまり、全体を見通した大きなビジョンで群れ‐システム‐知能の変革を行うのは危険で、そうではなく、絶えず、狭い範囲内で働く個々のエージェント間の調整や辻褄合わせを常に行いつづけることで、結果としてシステムの大きな(スムーズな)変動が起こる、ということになる。ここで≪想定内で留めることと、想定外を内部へ繰り込むことの区別を不明瞭にする≫というのはつまり、何が合法で何が違法であるのか(何がアリで何がナシか)という区別を、常に曖昧なままにしておくということだと言い換え得るのではないか。
≪区別を不明瞭にすることで、想定内、想定外の境界は明確な線ではなく、幅をもった領域になる。領域だからこそ、この軸に斜交する適応的か否かの軸は、包含され、ゆるい適応が実現される。自己組織化は、奇跡なのではなく、自己維持の定義が曖昧になることで生じる過程なのである。≫
ここで、≪自己維持の定義が曖昧になる≫のは、自己組織化によって環境に適応することを可能にするためで、つまり、この「曖昧」(想定内であるか想定外であるか分からない幅)が、自己と環境の間に起こる「我思う」を生む(つまりモノとコトとの分離を生む)ということにもなるのではないか。