●『群れは意識をもつ』(郡司ペギオ-幸夫)、第二章、メモ。
●文書ボイド。様々な種類の文書を特徴づける単語をいくつか選び、その選んだ単語の頻度分布によってある文書と別の文書がどれくらい似ているかを測定できる。選ばれた単語の頻度を並べた列をその文書のコードとし、各単語の頻度の差をとって足し合わせた量によって文書間の「文書距離」を測り、文書距離が測れる空間を文書空間とする。
文書空間とは関係ない別の仮想空間を想定し、そこにそれぞれの文書のコードを文書ボイドとしてランダムに配置する。ボイドは空間内で任意の位置と速度(速さと方向)を持つ点だ。速度は他のボイドとの相互作用で変化する。その変化は、(1)近傍のボイドの速度を平均化して得られたものに従う、(2)近寄りすぎたボイドは離れ、(3)離れすぎたボイドは近づく、ようにプログラムされる。その他に、(4)近傍にある他のボイドとの空間的距離と文書距離との積を計算し、類似したボイド群に接近し、(5)空間的距離および文書距離の積の「逆数」を足した量に比例して近傍ボイド群から遠ざかる、こととする。
こうすると、最初は仮想空間内にランダムにばらまかれていた文書ボイドたちが次第に群れをなし、文書は自動的に類似した内容のものの集まりへと分類されるという。ここで起こっているのは次のようなことだ。
≪とりあえず仮想空間の近さを利用して文書群を形成し、群れとして移動しながら、近隣に出現する文書ボイドを取捨選択し、目的の分類に近づけてゆく。(…)何らかの目的のもとに形成される文書集団が、自らの故郷周辺でまずは目的の集団を形成し、次第に集団構成メンバーを変更しつつ増やしていく(…)≫
これは例えば、バンドをやりたいと思う人がいて、その人はとりあえず同じ学校で楽器が出来る人たちとバンドを組むのだが、そのバンドが、ライブやコンテストなどで他のバンドと交流するうちに、個々のメンバーはそれぞれ自分の音楽の嗜好性に応じて適宜異なるバンドへと入れ替えられてゆき、次第にそれぞれが自分の嗜好性に近いバンドのメンバーとなっていく、というようなことに近いと考えていいだろうか。
●≪既存のメンバーとの折り合いをもとに新たなメンバーの参入、一部のメンバーの排除が繰り返されるため、「以前」は常に、「以後」に対する大きな制約として作用する。≫
≪この操作には、文書空間と仮想空間の距離が混合されており、それが集団のカラー、いわゆるコトを計算する。この集団のカラーに依存して、文書ボイド間の文書距離、いわゆるモノが計算されるわけだ。つまりここに、モノは集団の運動に有効なコトをもたらしているのか、コトはモノの計算に有効な環境を提供しているのかといった問題、モノとコトの関係に関する問題が現れている。≫
そもそも文書ボイドのコードは、たんに「単語(モノ)」の頻度の違いによってだけ特徴づけられていた。単語の頻度という「モノ」が、文書集団のカラーという「コト」を計算するために用いられている。そしてそのようにして計算された群れのカラー(コト)が、今度は新たに文書距離(モノ)を計算する時の環境(制約)となる。図と地は互いに反転することで相互に作用する、という風にも言える。
●≪(…)このモノとコトの関係は、きわめて局所的なものであり、長い時間スケールで議論される関係ではない。(…)きわめて小さい時間スケールに出現する関係である。これが何度も何度も繰り返されて初めて、適正な文書の分類が出現する。≫
≪目的である適正な文書分類の時間スケールと、ボイドの規則が適応される時間スケールと異なるものだ。だからこそ、あらかじめ平均化やボイドの規則によって、適正な文書の分類の帰趨を見通すことなど不可能で、計算してみる(文書ボイドを動かしてみる)ことが意味をもつ。≫
ここで行われているのは、近傍のボイド間での短い時間スケールの計算であり、つまり、俯瞰的、トップダウン的な分類の規則があらかじめあるわけではないので、分類は、「計算してみる」ことを通じて、その「結果」としてはじめて現れるものだ。
●人工知能には「フレーム問題」がある。≪解決すべき問題に対して、考慮すべき枠組みをどこまで考慮すればいいのか≫という問題。「想定外の事態」をなくそうとすればフレームは無限に広がり、その処理には無限の時間がかかる。目的(問題解決)に必要なフレーム(時間的・論理的スケール)が前もって与えられない以上、手段のスケールと目的のスケールは乖離せざるを得ない(たとえばそれが「文書ボイド」だ)。そこにフレーム問題があるのだが、その乖離が実は創造を可能にしている。
文書ボイドの目的は「分類」だとすると、では生物の、あるいは生物の群れの目的とは何か。例えば、生物の群れの「目的」はサステイナビリティ(持続可能性)だ、とする。しかし……、
≪何が持続するのか、「群れが持続する」とは群れの何を持続するのか、まるでわからない。何を満たせばいいのかわからないにもかかわらず、持続可能性は生命の本質だというのは、ある種のジョークだ。しかし、未定義性を含む機能を、機能として認めようと言うアプローチは、否定的に捉えられるべきではない。≫
何が持続するのは前もっては分からないが、結果として、事後的に「何か」が持続していればよい、この時、≪目的とそれを実現する手段の間には大きなギャップ≫が生じ、しかしそのギャップこそが創造性といえる。文書ボイドにさえ目的と手段にはギャップがあった(そしてそのギャップの設定こそが工学的な創造であった)。それが生命となるとなおさら……。
≪だから、未定義性を混入した機能を考慮することは、構造と機能の間に想定外のギャップを介在させ、システムにフレーム問題を介入させることを意味する。機能が限定的に見える場面でさえ、本来は環境の未規定性、開放性のせいで、機能と構造の間にフレーム問題が関与しているはずだ。≫
●フレーム問題は創造(創発)を可能にするが、それは「都合の悪いこと(不適応)」も創発する。
≪想定外の事態には、いいことも悪いこともある---にもかかわらず、悪いことはあまり起こらない。そういった楽観的で頑健な仕組みこそ、サステイナビリティの属性だ。≫
≪(…)サステイナビリティを実現する群れのモデルは、想定内・想定外の区別をし、両者の間にギャップを想定しながら(そうでないとフレーム問題に開かれない)、その境界を曖昧にし、絶えず局所的に個体間相互作用を調整するモデルとして構想されるだろう。≫
≪(…)まとまって運動する1個の有機体のような群れが、個体間で方向を揃えることなく実現されるなら、想定内・想定外には乖離が用意される。そのうえで、個体間相互作用の適用に関する非同期性と調整が実装されれば、サステイナビリティを実現する群れは実現できるだろう。≫
(第二章はまだつづく。)