●毎日、三、四時間ずつ、じっくり集中して『私のいない高校』を読む、というのを始めて八日目、ようやく最後までたどり着いた。いやー、面白かった。あまりにも集中させられるので、三、四時間があっという間であり、しかし、それでぐったり疲れしまう。ページをめくる手が止まらない、というのとまったく逆の面白さ。一時間に七、八ページくらいしか進まない。何度も前のページに戻ったり、行ったり来たりする。えーっ、とか、おーっ、とか言ったり、新たな発見にニヤニヤ笑ったりしながら。
青木淳悟は、一人で前人未到の道を歩んでいると思う。最初、「群像」に掲載された時に、さらっと読んだだけでは、「すっげー不思議だ、これどうなってんの」とは思ったけど、こんなにみっしりといろんな仕掛けが詰め込まれているとは気づかなかった。いや、これを「仕掛け」というのは間違いなのだろう。それらは、この小説を成立されるために必要な細部であり、この小説の生命をかたちづくっている動きなのだと言うべきか。
それにしても、終盤になっていよいよ明らかになる様々な欠落に唖然とさせられる。何かが欠落していた、という事実は、その何かが語られることによってはじめて、事後的に明らかになる。この話者は、「みんな当然、このことについては知ってるよね」と言わんばかりに、とつぜん、前振りなしに何かを語りはじめ、えーっ、今、それを言うのか、と驚かせる。「あれっ、言ってなかったっけ、知ってると思ってた」みたいにしれっとして。この話者の信頼出来なさといったら半端ではない。雰囲気としては、こちら側をまったく警戒させないようなのんびりした語り口ながら、実は世界は落とし穴と欠落に満ちている。一見、平坦にみえる記述が、こんなに穴だらけなのか、と。平板でなだらかな連続性が成り立っているようにみえる世界が、実は穴だらけであり、一つの文と次の文、一つの語と次の語との間には深い深淵がひろがっている。我々は平然と、無自覚にその深淵を飛び越えるのだが、後になってその存在を知らされ、ぞっとする、身もすくむ思いを「遡行的に」味わうこととなる。このことは同時に。に時間の感覚をひどく混乱させる。
オチが「名取三波堂」って、落語かよ、とツッコミたくなる。勿論、ニヤニヤしながら。
しかし、こういうのを読んでしまうと、多くの小説が。あまりにも粗っぽく、わざとらしく、分かりきった段取りばかりで出来ているようにみえてしまうので、困ってしまう。
●この三日間、中味をろくにみずに、「ユリイカハルヒ特集の表紙を観ている。何度観てもこの絵はとても不思議で面白いのだが、その不思議さの理由の一つに、三人の「顔」が、空間上でほぼ同一にあるように見える、ということがある。それは、この絵において(あるいは、マンガ・アニメ的キャラにおいて)、顔だけは別の次元にあるということかもしれない。
身体に関しては、多少のデフォルメはあるにしても、人間の身体として、ほぼ、普通に三次元的に表象されている。だが顔だけは、まったくの二次元(平面)というわけではないが、あきらかに通常の人間の頭部とはあり様が違っている。それは半平面的とでもいうような量感(と前後の幅)の無さによって描かれている。もともとマンガにおける顔は、アトムの頭やスネ夫の口が決して正面から見られることがない(というか、「あの状態」が正面であり、つまり常に正面である)、というような、特異な平面(正面)性をもっている。ここでも、ハルヒ長門も朝比奈も、目が口よりも大きいなど、明らかに素朴なリアリズムからは逸脱している。実際にこのような顔の人がいたかかなり気味が悪いと思うのだが、そう感じないのは、ここでは「顔」は半ば記号として処理されているからだと思う。しかし、まったくの記号というわけではなく、半実在性(半立体性)をもたされている。それは、普通に三次元的に表象される身体との整合性を保つためであろう。それに、アニメなどでも使用されるキャラクターであるならば、キャラは三次元的な背景(空間)のなかで動き、横を向いたり斜めを向いたりもするので、ある程度立体的でなければならないだろう。しかしそれは、三次元的にある物体としての頭部が、横を向いたり斜めを向いたりするのではなく(CGによる3Dアニメとは違って)、横を向いたという記号であり、斜めを向いたという記号としてある。だから、正面顔も斜め顔も横顔も、それぞれが「前後の幅が狭い」のだ。頭部が球形だから、横を向いても斜めを向いても平面としては丸く表象されるのではなく、前向き(として)のペラペラな薄い丸い顔があり、横向き(として)のペラペラな薄い丸い顔がある、ということだと思う。顔だけ次元が異なるというのは、キャラの顔はリアリズムによっては把捉されないということだろうか。
この絵では、三次元的に表象される身体と、二・五次元的に表象される顔とが、同一平面上に描かれるために空間が歪み、その歪みが絵を動かすための圧縮を促していると言えるかもしれない。実際、顔の前後の幅(と量感)を考えるならば、ハルヒ長門との位置関係は、顔の位置と身体の位置とが両立しないはず。まあ、そもそも、長門の顔によって隠されているその背後は、三次元の空間としてはありえないことになっているのだが。