●ちょっと昨日のつづき、というか、不正確だったかもしれないところの部分的な言い換えと付け足し。「ユリイカハルヒ特集の表紙のイラストについて。
長門の左(画面右)への傾きによって導入された動きは、平面的な広がりという次元では、左腕を掲げるハルヒの体側と左腕(その指先)の形態へと進展し、朝比奈が前に出す右手に引き継がれ、長門のクロスする両腕を通じて再びハルヒに返され、循環する。この循環する形態-動きがもつ、右に傾き、右下に崩れそうな不安定さが、ハルヒ(+長門)のスカートのひろがりの方向や、ハルヒの左足の踏ん張り(というか、曲がり)によって支えられている。不安定さが動きをつくり、しかしそれは崩壊しないような力で支えられる。
このような循環は、三次元的な深さにおいても実現されている。長門の傾きは、ハルヒの掲げる左手の(下から前を通って、上へ向かう)動きと、それと対照的な右手の動き(朝比奈の手首をつかんで、後ろから前へ引っ張る)によって、前後の幅をもつ「回転」という動きに発展する。そして、それが朝比奈の前へつんのめるような動きを生む。この前へのつんのめりは、長門の傾きが、それを避けるように見えることから、長門によって受けられた(反応された)とみなされ、再びハルヒの両腕へと循環してゆく。平面的な広がりと、立体的な幅という異なる方向で生じている、二つの循環運動が長門を起点に起きている。長門によって引き起こされ、ハルヒによって拡大された動きが、朝比奈に作用していて、その作用が長門に返される。朝比奈の身体の分断は、いわばハルヒによる強引な回転運動が生んだものだとも言える。
そしてこれらの二つの循環運動は、ふわっと広がる髪、リボン、スカートなどの形態によって、循環から開かれた別の動きへも接続され、分散されもする。
ハルヒの強引な引っ張りによって、朝比奈は「顔」だけを元の位置に残したまま、そこから分断された上半身がぐっと前へと出てくる(朝比奈の髪が大きく膨らんでいることが「顔」をそこに残すための空気抵抗のような感じを生んでいる)。下半身も、上半身にはついてゆけていないでやや遅れる。だがここで、身体が分断されることで(上下に拡張し)より大きく見える朝比奈によって、空間が後方から圧縮され、その圧縮の力が、ハルヒが朝比奈を引っ張る力(勢い)と重なり、その表現ともなっている。朝比奈のよろけは、長門によってかわされつつも、しかし同時に、長門が後方から圧縮された空間の最前面にしっかりと立っていることで、受け止められてもいる。つまり最前面の長門は、ひろがりという事件におけるハルヒの左足の踏ん張り(曲がり)やスカートのひろがりのように、深さの次元において、バランスの前面へ向けた崩れを支え、抑えている。
このように、三者三様の動き(加えて様々なパーツそれ自体の動き)が、それぞれのキャラクターをもって独自に存在しつつも、それらが関連しあって、幾つもの循環や流れ、停止、はぐらかし、そこからの逸脱といった、連携的な動きとリズムを形作ってもいる。それらが一枚の絵として一挙に与えられている。これらすべての動きの、個々の存在、その共存と関係(配置)と連携の総体こそが、この絵の表現であると言えるだろう。古典的な意味で、とてもよい作品だと思う。
●最近、駅の階段を下りてロータリーに出ると、いつも真っ先にクレーンが見える。今日は、暮れた後の薄暗さと雨とで霞んだクレーンのシルエットの先に、赤い灯りがポツンと浮かんでいた。
駅前の病院は、最近、道路を挟んで斜向かいにあったつぶれてしまった大きなドラッグストアの敷地を駐車場として使用していて、それまで使用していた敷地内の立体駐車場を解体し、そこに新たな別棟を建てているらしい。そしてその別棟を建設するためのクレーンが、駅からの階段を下りるとすぐに見える。他にも見えるものはいくらでもあるのに、いつも決まってクレーンに目が行ってしまう。