●テレビの画面の左下に、大きく「アナログ放送終了まであと七日」と出ている。あと一週間なのかと思う。
●昨日の続きの引用、メモ。「春についての対話」(荒川修作小林康夫)より。
●《小林 僕は、要するに大人になっちゃった人間が、自分の誕生を超えて彼方に別の誕生があるんじゃないかという、そういう眼差しをしているわけですが、荒川さんは逆に、もう一度これをやりなおしてみることによって、自分がなぜここで、どうしてこういう人間になったのか明確に知らなくちゃ気が済まないという。
荒川 その通り。そのためには、それと同じ条件を人工的に……、これが僕には永遠を思い起こす……。
小林 つくらなくちゃいけない。つくれるはずだ。
荒川 はずだ。ベルクソンや『ムッシュー・テスト』。ダブルバインドの発見者も、結果的に挫折しちゃったり駄目になったのは……。
小林 言語だからです。
荒川 それだけじゃなくて……。言語、それもあるかもわからない。だけどやっぱりイマジネーションの世界というものを案外信じちゃってたからじゃないかな。》
●「同じ条件を人工的に作る」という行為のなかに、「永遠を思い起こす」という荒川の独自の連想はとても興味深い。それとともに、ここでは言語以上にイマジネーションへの不信が語られる。つまり言語と同様にイマジネーションもまたそれ自体のなかに世界(深さとか根源)への通路をもたない。だから、言語もイメージも、それ自身の力ではなく、あくまでその組み合わせ方(使用法)が問題となるのだろう。たぶんここに、荒川の徹底した形式主義がある。
●《小林 最後にもう一度エンゲージメントに戻ると、エンゲージメントである以上やっぱり……さっきから出てるけど他者というのがありましたね。僕はそれを、ほかの人々との間の共有の---つまり時間も空間も言語も、どこかで共有の場というのを開いて、一方ではゼネラル---ユニヴァーサルという言葉は好きじゃないんです---な場を開いちゃう。時間も空間も言語も、ほとんど全部が、さっさおっしゃったみたいに分かれてて一緒になってるようなものとしての人間、空間、時間が分かれてゆく、その分かれ目のところに意識とか言語ってあると思うんですよね。そっちのほうは、常に分かれることによってみんなが分かち持つことができるような空間が開かれるわけですよね。
荒川 分れることによって分かち合うものが持てない、そこで私というやつが出てくるんでしょうね、自我とか。
小林 だだ自我というのは、そのことをまさに見ないようにするための一つの装置なんですよね。
荒川 そうですか?
小林 それはまさに僕がさっき言った意味で肉体というのが出てくるからです。肉体というのは必ず場所や位置やなんかを持っているわけですね。それと「私」という言語がくっついてしまうと、そこに本当の意味での分かち合いが不可能なんだけれども、同時に分かち合いが必然であるべき空間が開かれてると思うんです。
荒川 時や時間の発生はエンゲージメントという行為が必要ですね……三百六十度開かれたポテンシャル・エンゲージメントというのがある。さっき言った想像できない春みたいなものと同じように、ポテンシャルなエンゲージメントというのは……意識の発生が可能な状態で置かれている位置、場が受動的にあるわけでしょう。一見不動に見える足の裏のような所。》
●とても難しいけど、まず、小林が「分かれることによって分かち合うことができる」ものとしての意識や言語を提示するのに対し、荒川は「分かれることによって分かち合うものが持てない」ものとしての私や自我という返し方をする。そして、小林が提示した「他者」という問題に対して荒川はほとんど興味がないようにみえる。おそらく荒川にとって「他者/私」ということが問題ではなく、そのような問題は三百六十度に開かれたポテンシャル・エンゲージメントが、ある特定のエンゲージメントとして制約されるという動きのなかに既に含まれている(おそらく荒川にとって共有される場というのは、言語やイメージを媒介として開かれるものではく、「切り閉じる」という行為そのものが共鳴するものとしてあるのではないか、だからこそ他者と共有されるものとしての「作品(イメージと言語)」ではなく、「装置」こそが必要になる)。
小林が、「肉体」によって位置や場所が問題となると言うのに対し、荒川は、肉体や意識があらわれるより前に、その発生が可能になる位置、場、何もなくて足の裏だけがあるような場があると言う。この肉体や私より先にある《足の裏のような所》こそが原初的なエンゲージメントとしての、三百六十度開かれた、ポテンシャル・エンゲージメントということになるのだろう。
ここで荒川が使う「足の裏のような所」もまた一つのイメージではあるが、例えば小林の使う「春」に比べ、より貧しく、よりゼロに近いイメージであり、このイメージが、「春」というイメージの豊饒さを批判しているように思え、荒川のイメージへの不信の徹底ぶりがうかがわれる。
●《荒川 (…)分裂病になった人に絵を描かせてみると、だいたい三種類あるんですよ。
完全に拡散するもの。一つはむちゃくちゃな、辻褄の合わない……。一つは完全にシンメトリー。つまり世界とのエンゲージメントをつくろうとしているんですけど、その三種類は僕たちの基本的なもののようです。その一つに僕は似ているんです。
小林 シンメトリックですね。
荒川 シンメトリック(笑)。ほんとはバラバラのほうがいいんですよね。だけど、それだと生活がもたない。愛とか郷愁とか、そういったものをつくる機会が少なくなっちゃう。そういうのがあるわけですね。(…)》
●世界との基本的なエンゲージメントであるといえる「愛」や「郷愁」でさえも、イメージによってではなくシンメトリーという「構造」によって支えられる。この徹底した(生きられた)形式主義。逆に言えば、(ほんとはバラバラのほうがいいのだけど)シンメトリーという構造がなければ《生活がもたない》こと。ここにはおそらく、(言語哲学的な)世界を形式へと還元しようとする意志ではなく、シンメトリーという形式(というか、関係の解体、関係の発見、関係の発展等を作動させる用法-技法としてのシンメトリー)によってだけ世界の内実が充填されるという出来事があるのだと思う。前にも書いたけど、「反転」というのは、世界を二項対立的に解釈することではなく、一つの項を二項に分離し、その一項と別の項との間に二項関係をつくり、さらにその関係と別の二項関係とを関係させ…、という風に、解体と関係づけをはてしなく発展させてゆくための技法なのだと思う。「愛」や「郷愁」は、その変換過程のなかに見出されるのではないか。
しかし、これが反転した言語哲学という地点に留まってしまえば、それは、強く魅惑的だが珍しい症例の一つでしかないかもしれない。そうではなく(それだけではなく)、それはたんに出発点なのだ。このようなイメージと言語への徹底した不信が、象徴的なものや想像的なものによる世界との関係(通路)とは「別の関係(通路)」を追及する、あくなき探求へのエンジンとなっているのだと思う。
(装置とその用法を介して世界と関係すること、例えば、画家が絵の具と筆を通じて世界と関係し、野球選手がボールとバットを通じて世界と関係する時、その関係を成立させる媒介は、象徴的なものでも想像的なものでもないだろう、とか。)