●編集者の反応はまだだけど、とりあえず締切までに原稿が書けたのでちょっとほっとして、一日ぼんやりしていた。今日は原稿は書かないので、コーヒー代を払って喫茶店に涼みに行くのは「贅沢な行為」となってしまうので我慢して、暑い部屋のなかで本を読む。
●引用、メモ。「春についての対話」(荒川修作小林康夫)。「ルプレゼンタシオン」003より。これが出たのは92年。出たころは、けっこう隅から隅まで熱心に読んだけど、二十年経って、今でも読み返すのはこの対談くらいになった。でも、この対談は、年に一度くらいは、あるいはもっと頻繁に読み返す。二十年の間に何回読んだだろうか。最近になってようやく、何を言っているのか分かるようになってきた。
《小林 それはわかるんですけど、それをちょっとだけ修正したいのは、僕らがいないところに春があるかないかということに僕は興味があるんじゃなくて……。まああってもなくてもどっちでもいいんですけど、僕たちがいる以前にある春というのがある。つまり僕たちがいないとき---単にいるかいないかという二元論じゃなくて、以前の話なんです。僕たち以前のもの、つまり意識が発生してくるその前にあるもの、それは僕らがいないんだけど、まだいないという時間であって、単純に僕らがいないわけじゃないんです。それは極端にいえばノスタルジー---非常に根源的な意味でノスタルジーと関係があるんです。つまり記憶というものがない、だから自分がいかなる確信も持てないエンゲージメントが「私」というエンゲージメントができる以前にあるということです。
荒川 私よりも小さな大きな私があると。
小林 そう。そこで僕は「春」という自然のメカニズム、あるいは自然のモデル、自然のコンストラクション、あるいは反復があればそのノスタルジーは満たされちゃうわけですよね。そういうもので自分を解体していくとこによって僕はそこまで行けると思うんだけど、荒川さんそこでまったく逆のことをなさるわけですよ。
荒川 オーライ、わかった、わかった。
それを人間の手でつくりあげて……。その条件を満たすエンヴァイロメントを人間がつくりあげない限り、中には浸れないけど、その近辺でね。ノスタルジーというのを感じたり知るというのは、私よりもっと大きな、もっと小さな、もっと幅の広い何かがいて、年寄で、何百年、何千年も歳をとっているというもう一人の何かが……。ただ知っても、僕はそれを信じることができない。それによって幸福とかカンファーな世界に僕は行けないんです。僕はそういうことを一つも信じることができないんですよ。それと同じ条件を満たすだけのことを与えられた世界からつくりあげようじゃないかと。それで、いつも僕が決定的に負かされるのは、僕流に言うとバックグラウンド、後景と言われている怪物が僕より早回りしていることです。小林さんの言うのは、そんなことがわかっていながらそんなことをやっているあなたがどうもおかしいと。
小林 まったく、そうなんです(笑)。いや、極端に言っちまえば滑稽じゃありません?とかね。
荒川 このあいだジョン・サールという哲学者が僕のブランクの考えに興味を持ったと言うんですよ。僕のブランクと言う所を彼はバックグラウンドという言葉を使うわけですね。前景、中景、後景(バックグラウンド)。その後景は絶対に前景に属さなきゃいけないという方法論。(…)背中は必ず前に……前がなかったら背中はないんだ。それと同様に、後景は必ず前景に結びつく。(…)それでバックグラウンドというものを明確にするために、前景の動き、前景のすべてをいろいろやったわけですよ。バックグラウンドがなかったら前景も中景もないんだからね。(…)バックグラウンドというのは前景にエンゲージメントをいつもつくりあげているものじゃないか。》
●「ノスタルジーでは幸福とかカンファーな世界に行けない」、「バックグラウンドを明確にするために、前景のすべてをいろいろやる」。ここに荒川の作品(もはやそれは作品という概念とは別のものだと思うけど)を貫く、異様な薄っぺらさの感触の秘密と必然とあると思う。通常、バックグラウンドは、作品の持つ含みの大きさや豊かさ、つまり作品から感じ取られる作品のあらわれそのもの以上の厚み(ノスタルジー)によってしか捉えられない。しかしそうではなく、「前景のすべてをいろいろやる」、つまり薄っぺらなものを組み立て、錯綜させること(これを端的に図示したものがダイアグラムだろう)によってそれを捉えようとする。つまり、ノスタルジーとバックグラウンドとを切り離す、ノスタルジーをバックグランドの根拠としない。
(ここで気になるのが、荒川の作品における「(ノスタルジー=バックグラウンドとなるのかもしれない)母」の位置だ。「意味のメカニズム」のようなクールな作品にさえ、母への手紙が鏡文字で描きこまれている。「枕を送ってくれてありがとう、これからこの枕で眠ります」みたいな内容。)
《荒川 あのとき、ひょっとしたらバックグラウンドというのは前景と中景でけっこうつくりあげることができるんじゃないか。たとえば固有名詞はバックグラウンドがなくてもバックグラウンドを持ってきてるんですよ。持ち合わせているんですよ。そうでないと固有名詞は成り立たない。レイモン・ルーセルのような芸術が成り立ったということは、バックグラウンド抜きでもやれるということ。いわゆるシンタックスを完全に壊しちゃってもいいということですよ。……いままでバックグラウンドと呼べなかったものがバックグラウンドの代わりをしてくれる。
小林 そこに、僕は荒川さんのある種のパラドックスがあると思うんですね。つまり一つは……。さっき僕はノスタルジーということをあえて強調しましたけど、荒川さんはなぜ普通の多くの人のように安心してノスタルジー……ノスタルジーといっても単純なノスタルジーじゃないんで非常に大変なんですけれども……。つまり、想像力を通じてノスタルジックに、いわば誕生以前のエンゲージメントへと帰ってゆくという……。
荒川 それはできない。
小林 なぜできないかというと……。いや、逆に言えば僕らがなぜできるか。なぜそういうことが可能かといえば、それはたぶん言語以外にないと思ってる。それを可能にしてくれるのは言語。言語がもしなければ、そんなこと絶対できっこない。考えることすらできない。つまり春と名付けられるから、僕らはわれわれの誕生以前の春っていうことを感覚することができるわけですよ。春という言葉がなければ、どんなことやったってそんなことはできない。犬や猫は、春という言葉がないから、どうしても誕生以前の春までは……。この春は同じように享楽することができても、誕生以前のエンゲージメントである春までは届かないわけですよ。ただ僕は、荒川さんという人は絶対言葉を信じない人だと思う。にもかかわらず奇妙なことに、いま固有名詞とおっしゃったけど、まさに言葉がそうである方法を言葉じゃないものに応用したんだと思うんです。僕はそれがダイアグラムだと思う。》
●ここで荒川が「言葉を信じない」ということは、言語からノスタルジーへの遡行(つまり小林康夫が述べていること)を信じないということだろう。言語は世界の厚みを含まない。だから、徹底して薄っぺらなもの(前景)の再構成から(言語−ノスタルジーの連鎖から途切れた)バックグラウンドをコンストラクションしなければ(捕まえなければ)ならない。だから、言語を信じない荒川の作品が、逆説的に言語哲学分析哲学的な貧しさをもつことになる(しかし行われていることは真逆である)。おそらく、その外観の貧しさは、そこに、それにかかわる人の行為が加わるとで変質する。
《荒川 (…)いずれこの地球は爆発して僕たちのギャラクシーがなくなったとしても、またこのような状態が起きてきたときには恐らくこれと同じような状況で、まったく人間と程遠い状況でも、もう一つの生というものが芽生えるだろう。それがあなたがさっき言った春というような言葉が出てきたり、いろんなもので、そういう一つのカテゴリーで出てくるときに、その中に桜があってもいいしなくてもいい。状態は変わってきますけどね。
小林 僕もその冷蔵庫、あると思うんですけど、僕はそれを「春」と言うんですよね。つまり……ぼくと荒川さんとの違いですけれど……無理をして冷蔵庫つくって感覚を閉じ込めておかなくても、それは保存されている。そのことを名付けて「春」って言うんです。回帰してそれぞれ全部違う春ですけど、春というのは僕にいわせりゃ冷蔵庫の扉が開くわけですよね。
荒川 初めから開きっぱなしですよ。
小林 で、その匂いとか春の暖かさとか香りとかが一挙にパーッと冷蔵庫から出てくる状態を僕は春と言うんで……
荒川 僕の言う冷蔵庫、それ自体が春です。僕のがあなたの言われてる春にならなくちゃいけないんだ!!
小林 荒川さんのは冷蔵庫じゃないんですか。開けるとコチンとして(笑)。
荒川 いまのところ、あなたの言ったようにコチンとしてほしいんですよ。カチカチで、冷蔵庫のほうなんです。しかも縮小されて。お湯をわかしといて何か一つポンと入れると、チキンのスープになるのがあるでしょう。
小林 クノールとか……。
荒川 僕の場合あれですよ。入れといてほっといたら、いずれ蒸発して全部なくなる。そうなってもいい。そうなることはもうわかっている。それを永遠に残したいなんて言ったら大変ですけど、いずれ向こうからやってくる、もうわき上がってきてるような自然というやつにむちゃくちゃにされちゃうことは最初からわかってますけどね。だけど、その秩序だけは一度明確にしておかないと。それから、そのプロセスも……。僕はいま、つくりたいものをつくっただけじゃ駄目なんですよ。その新しい使用の仕方をみんなで訓練したいんです。訓練している間にひょっとしたら---、相当の所はいわゆる与えられた自然の中に見つけだすことができると思うんです。その中に入って行く。春は何度でもやってきて……。
小林 なんか急に石器時代の人間を思い出した。
荒川 そうだね。
小林 そうですよ。
荒川 そう。僕なんかまさにプレ・ヒストリカルな人間。
小林 そうですね、もう言語以前というか。人間という形にまだなっていないものが歩いていて、突然に、なぜか知らないけど泥をこねてつくるという……器みたいなものをなぜかつくってしまった。どうしてつくったかわからない。(…)》
●人間という形にまだなっていないものが歩いていて…、たぶん誰でもが、そのようにして歩いている。そして、このような「ゲージュツ」的「テツガク」的な話が、日常生活とか社会とか経済と切り離されていると感じる感覚が、おそら間違っているのだと思う。