07/12/09

ゴンブロヴィッチ『コスモス』を読み始め、だいたい三分の一くらい読んだ。どんな小説でもたいがいそうなのだが、最初のうちは「これ、どうなんだろう」という疑いの感じが強いなかでそろそろと歩みをすすめるもので、特に、雀の首吊りみたいな細部には「ゲーッ」と思ったのだが、相手の言葉をとりあえず受け入れつつ探りを入れるように読み進めるうち、次第に、何をやろうとしているのか、というか、どう読んだらよいのかの感じがつかめてきて、少しずつ面白くなってくる。(名前は知っていても、ほとんど予備知識のない、はじめて読む作家の小説を最初に読むときにある壁というのか、抵抗のようなものを越えるのは、けっこう大変なものなのだった。)
とはいえ、すごく変で面白いと思える時と、根本的に不毛なことをやっているだけなんじゃないかという疑いとが、半々のまま読み進めている感じではあるのだが。でも、あらかじめこちらのなかにある判断基準に照らして簡単に面白いとか面白くないとか言えてしまうようなものは、本当は大して面白くないもので、半信半疑であるにもかかわらず、とりあえずもう少し先までは読んでみようという気にはなっていて、そういう思いの中で読んでいる状態のことこそを、面白いというのかもしれないのだ。
●ここ何日かずっと、寝る前に荒川・茂木対談をひっくりかえして、少しずつ読み返しては、いろいろ考えている。荒川の話には基本的に脈略に沿った流れなんかないから、ひとつひとつの細部を検討して、自分でそれらの関係や関連を見つけ出してゆくしかない。ていうか、たんにバラバラに読んだ方がずっと面白い。荒川は仏壇のなかに住む、というようなことを言う。《..仏壇っていうけど、本当は部屋中が仏壇でなくちゃいけないの。だから、私は三十年ほど前、仏壇の部屋をつくろうとしたの。》《それで、仏壇のなかで寝るわけ。そうしたらだれでも、おばあさんたち、うわあって言わないか? 仏壇のなかに私が入ってるって言ったら、これ、あんまり恐ろしくて入れない。(略)デザインはあるんだよ。三鷹で見たでしょう? あれが全部仏壇でできているの。》「仏壇のなかに私が入っている」ということの感触をどう理解すればよいのか。「仏壇のなかに私が入っている」という感触によって、私は、私から遠く離れた「私」を想定することが出来るということなのだろうか。荒川は異様に(律儀に)リテラルなところがあるから、仏壇を大きくしてそこに住めば、仏壇のなかで住むことになると考えるのだけど、それではたんに、仏壇みたいに見える(悪趣味な)家に住むというだけではないか、という疑いはある。例えば、今ぼくが住んでいるアパートの部屋が、まるで仏壇であるかのようにそこに住む、というか、たんなるアパートの部屋を、ぼくが「住む」という行為を通して仏壇として出現させる(仏壇化させる)、ということも可能なのではないだろうか。いやしかし、それでは不徹底だということなのかもしれない。荒川にとって仏壇とは、何よりも自身の分身(=排泄物)が祀られる場所としてある。《君、便所へ行ってウンコをしたり、ピーピーしたときに「俺の分身が!」って言って泣くやついないだろ。あれに泣くようになってほしいんだよ。「おい、悪かったな」とか言って。それで便所から出てこないやつが出てきたら、そしたら、私たちもやっと少し安心する。》《そのときにはじめて仏壇っていうのが必要かもしれないね。ウンコをこうやって置いとくの。ベタベタの。》「仏壇のなかに私が入っている」というこは、こういうことでもある。このイメージだけを取り出せば当然、これって桁外れのナルシシズムとどう違うの? っていう疑問もあるだろう。しかしこのナルシシズムは底がぽっかりと抜けている。(私の分身は、私にまったく似ていないだけでなく、私を代理表象することさえもない。分身の鏡像性が私の存在を支えるのではなくて、私が無数の分身の方へと遠ざかってゆき、私のステイタスが分身へと漏れ出して移動してゆく感じだろう。)つまりそれは、そもそも穴だらけでスカスカであり、無数の入り口と出口があって、そのそれぞれが勝手に外と行き来しているような種類のものなのだ。(実際、荒川の作品のスカスカさほどナルシシズムの感触から遠いものはないだろう。専制君主的ではあっても。作品構造の反転性-双子性は、きわめて言語的であり専制的であるが、もう一方で物質としてのスカスカさは、それを逃れる無数の穴としてある。実際、その作品においては、その見かけ奇異さや反転的構造はあくまで入り口であり、常に地面が傾いていること、無数の穴蔵が分裂的に並列され、どの穴蔵にも入り口や出口が沢山あること等の方が重要であるように感じられる。)
荒川の語る面白エピソードは、思いつきや気まぐれのようにポンポンと脈絡なく飛ぶ。だから、それらを個々に検討しつつ、相互の関連を考えてゆくのだけど、その時、「脈略なくポンポンと飛ぶ」ことの意味も考える必要がある。(それが「面白い」からといって)一つのエピソードだけに必要以上に足をとられると、「それって結局ナルシシズムとかわらないじゃん」とかいう間違った結論へと至ってしまう。