07/12/10

●ずっと死んだ状態だったiPodが復活した。で、『ジャッキーブラウン』のサントラを聴いている。ボビー・ウーマックとビル・ウィザースとミニー・リパートンは、ちゃんとアルバムを探して聴こうと思う。
●それとはまたちょっと違うのだけど、高橋悠治の『ATAK006』というCDに入っている「それとライラックを日向に」をiPodで久々に聴く。電子音と声と(カフカの)テキストによる作品。イヤホーンで聴いていると、頭のなかに、自分とは別のひとつの身体が形成されるような感じがする。(その身体を「私」は自身の分身として経験する?)その身体は、(ボルヘスの「円環の廃墟」とは違って)必ずしも「人間の形」をしている必要はない。というか、まったく別の形をしていることに意味がある。iPodとイヤホーンだけがあれば、そこに出来する別の身体。荒川修作の誇大妄想的な大きさに対抗できるものがあるとしたら、それは高橋悠治のこの作品のなかにあるように思われる。というか、荒川の考えていることを実現するのに、そんなに大規模な「建築」が本当に必要なの?、という疑問が、この作品によってはじめて可能になる。もっと小さな行為によっても、「解釈しながら手続きを構築する」ことは可能ではないか。「仏壇のなかに私が入ってゆく」という時、実際に外側に大きな仏壇をつくる必要があるのか。荒川自身がいうように、たとえ《お腹が空いて》いたとしても、まず《いっぺんご飯をね、歩いていって廊下に一つ置いてみる》という行為をすることによって、ただの家を「仏壇」にしてしまうことも可能ではないだろうか。(しかしそれが、梶井基次郎の「檸檬」になってしまっては駄目なわけなのだが。)高橋悠治の作品は、そのための希望を示しているように思う。
カフカ 夜の時間』という本に挟まっている、浅田彰との対談での以下の発言が、「それとライラックを日向に」について語っているように思われる。ここで語られるカフカは、例えば『城』を書くカフカとは、またちょっと別のカフカだろう。
カフカで面白いと思うのは、たとえば小ささということかな。自分をだんだん小さくしてゆくと、極限においてどこに行きついて、そこでどういうふうに人と出会うか。それを書くだけじゃなくて、実際そういうふうに生きてゆくんだよね、カフカは、最後には病気になるでしょう。水も飲めなくなって---そこまでいくと、極限状態のコミュニケーションの形が見えてきたんじゃないか。それまで、ユダヤ人が借り物であるドイツ語で何を書いてもウソにしかならないという根本問題を抱えている作家が、実際に病気になって、動けないで、声を出せないで、書くだけになってしまう。そうするとたとえば、花が活けてあって、それが水をどんどん飲んでいるということを書くわけね。その時点において頼っている言葉は、いままで書いてきた言葉とは違う意味で使われている言葉だよね。そういう状態には興味がある。》