08/01/01

●昨日の日記を書き終わってから、iPodの中身を久々に大幅に入れ替えて、その勢いで、朝方までいろいろとCDを引っ張り出して聴いていたら、頭が興奮して全然眠れなくなったので、そのままずっと起きている。
ぼくは、音楽に詳しくないというだけでなく、自分の耳にまったく自信がない。自分のことを、根本的に「音楽がわからない奴」だと思っている。ぼくにとって、音楽ほどに、作品を受け取ることの寄る辺無さというか、作品が、あくまで自分の身体(感覚)によって受け取るしかないものであることの根本的な孤独を、その都度、強く感じさせられるものはない。同じ音を聴いていても、隣りにいる人と自分とでは、その「頭のなかで鳴っていること」は異なっていて、その人の頭のなかで鳴っているものを、そのまま自分が経験することは決してできないのだ、と、音楽を聴く度に強く感じるのだ。(「作品」というのはそもそも、ある媒介を通して形象化された、人の頭のなかの再現でもあるだろう。そしてそれは、それを受け取るそれぞれの人の感覚受容器を通してしか受け取られない。)自分の耳に自信がないということはつまり、自分の「頭のなかで鳴っているもの」が、おそらく隣りの人の「頭のなかで鳴っているもの」に比べて、かなり貧相なものでしかないだろうとしか思えない、ということだ。あるいは、今鳴っているこの音を、ぼくの耳-頭は決して充分にクリアーには捉えきれず(捉えたという手応えを感じることが出来ず)、常にどこか茫洋とした不確かさでしか捉えられない、という感じのことだ。(実際に、手で物に触れるように、音に触れられる人もいるのだろうと、想像してみることしか出来ない。音楽についての言葉に意味があるとすれば、この「想像」の密度と精度を増すための助けとなる時であって、決して人と共有する「正しい」とされる何かを外側から記述する時ではないと思う。「分る」か「分らない」かという決定的なことを、言葉は決して記述できないだろう。)これは、速く走ることが出来ないとか、手先が不器用で上手く組み立てられないとかいうことと同様の、ぼくがぼくの身体をもって生きている以上、ほとんど絶対的な条件としてあることだろう。こういうことは、「お勉強」によってはどうすることも出来ない何かだ。(お勉強ができる人は、これを「お勉強」によってどうにかしようとする、または、どうにか出来ると考えるのだろうけど、それは間違っているんじゃないかと思う。)これは、音楽を好きではない、とか、聴かない、とかいうこととは、また別の話だが。
そんな奴の言う事だからもとより当てにはならないのだが、今まで、いろいろ聴いてもどうもよく分らなかったというか、ピンとこなかったドビッシーが、高橋悠治の演奏で聴いて、もしかしたらドビッシーって「こういうこと」なのか、というのがはじめて一瞬だけ掴めたような気がする。(その演奏が決してオーソドックスなものではないということくらいは、ぼくにも分るのだが。)「分る」ということは、例えば自転車に乗れるようになるということで、その「理解」が正しいか正しくないかは、自転車に乗れているかいないかによって検証されるのだが、「作品」が「分る」ということは純粋に感覚的な次元の出来事なので、その妥当性を検証するのは困難なのだが。