●『電脳コイル』(磯光雄)をDVDで。まず、既にレンタルしてあった、9話から11話までが収録されている「4」を観て、面白かったので、近所のツタヤまで出かけて行って「1」から「3」までを改めて借りて、もう一度1話から11話までを通して観直した。(ここまで書いたところで年があけた。)
11話までだとまだ半分もいってないのだろうけど、全体像というか方向性みたいなのが、おぼろげに感じられるようにはなってきた。というか、一ヶ月に一枚のペースで出る、3話分収録のDVDで観ていると、次を観る時には前のお話の記憶があやふやになっているのだけど、つづけて観ることで、いろいろと細かいところまで分るようになる。
『電脳コイル』は最近のアニメのなかではもう圧倒的に面白いのだけど、それは何か「新しいもの」というよりも、既にあるものの様々な要素を、これ以上ないというくらい絶妙に組み合わせていることからくるように思われる。前にも書いたと思うけど、ぼくにとってこのアニメの面白さは、何といっても空間のリアリティにこそある。メガネというアイテムによって可能になるのは、現実的な空間と電脳空間とが重なるということで、メガネをかけた子供たちは、電脳的な空間にいるのと同時に、現実的な空間のなかにもいる。(現実的な身体をもつと同時に、電脳的な身体をも持ち、現実の身体を動かすことがそのまま、電脳的な身体を動かすことになる。)そしてその重なりこそが、逆にその二つのズレをより顕在化し、分離を促進し、そのズレこそが、その「向こう側にある何か」を招き寄せる。子供たちにとって、空間がそのようなものとしてあるのは、何も電脳化されているからではない。子供たちにとって、まず現実の空間こそが、ここで描かれているように見えているのだし、感じられている。そのような空間感覚それ自体は、新しいものではなく、民俗学的(怪談的)とも言えるような普遍性をもつものだろう。しかしそれが、電脳メガネによって、より精密な「表現形」を得る。(例えば、サッチーが入り込むことの出来ない「結界」の存在が、お役所の縦割り行政を理由にして説明される時、民俗学的(あるいは人類学的)空間感覚と、現実上の空間とが、あざやかに結びつく。)電脳上の古い空間と新しい空間との間にある裂け目は、ただ電脳上の裂け目なのではなく、そこに現実的な裂け目が重なる。それによってリアルな「向こう側」を出現させることが可能になる。だからこそ、神社や古い路地や廃工場などが、たんにノスタルジックな風景としてだけではなく、生々しいテクスチャーとして浮かび上がってくる。(サッチーやキューちゃんに追いかけられたり、電脳ペットに話しかけている姿を、メガネをかけていない大人からみたらどう見えるのだろう、とか、想像するのも面白い。それはもう端的に「病気の人」とかわらないと思う。こちらの側からみた、『電脳コイル』ダークサイドみたいなお話も可能だろう。)
お話としては、過去が醸し出す「謎」の匂いに頼り過ぎるきらいがあって、そこはどうかとは思う。転校してきたヤサコからみれば、大黒市の小学校でのフミエやハラケンの過去は謎であり、逆に、フミエやハラケンからすれば、ヤサコの過去は謎である(ヤサコ自身にとっても、自分の曖昧な記憶が謎となる)。そしてイサコの過去は、その双方にとって謎としてある。おそらく、この物語は、この三つのバラバラな過去=謎の間の関連性が徐々に明らかになってゆくという方向で進むのだろうと思われる。ここでその謎を強く匂わせ過ぎ、謎によって観客の興味を引っ張ってゆくようになり過ぎると、とたんに面白くなくなる。こういうお話が、童話として描かれると、どうしてもそういう感じになってしまいがちだろう。しかしこれはアニメであって、謎の吸引力と拮抗するかそれ以上の、ドタバタした動きがあり、細部の過剰があり、イメージの連鎖の面白さがある。これはもう、日本のアニメーションの技術的な蓄積と表現力の幅が総動員され、縦横無尽に利用されている。一方で、ヤサコやハラケンといった内省的なキャラクターが世界設定の複雑さや深さを表現しつつも、もう一方でキョウコやフミコやダイチといった、常に多方向へと落ち着きなく動き回るキャラクターが、作中に常に動きを導入し、ひっかきまわしている。(『攻殻機動隊』と『未来少年コナン』と『回路』とが融合したかのようだ。)
『電脳コイル』がぼくにとって馴染みやすいのは、この作品が子供の頃に愛好した天沢退二郎の童話やNHKの少年ドラマシリーズなどの記憶と同種の匂いを濃厚にもっているからでもある。空間が電脳化した世界では、ハッカーとは魔法使いのことだ。天沢退二郎の童話では三種類の魔法があった。『電脳コイル』でも、メガ婆の使う古流(「コリュウ」というのは「古流」だと思われる)の魔法と、イサコの使う暗号屋の魔法があり、今後、もう一つ別の魔法が出て来るのか、それとも、もう一つの魔法とは、ハラケンの伯母さんたちの使う、役所の(つまり公的な承認に保護された)魔法ということなのかもしれない。魔法とは技術の体系であり、そこに真実(謎)は含まれない。『電脳コイル』の世界で真実=謎とはバグ(イリーガルやキラバグ、あるいはミチコさん)のことであり、つまりは空間の裂け目からあらわれる得体のしれないリアルな何かである。この作品は、いわゆる子供向けの童話としての縛りをもつので、おそらく最終的には、このバグが何かしらのかたちで「記憶」と結びつくことによって「謎」が明かされ、それなりにきれない終幕を迎えるのだろうと予測される。しかし、この作品が、童話としてきれいに完結するだけでは納まらないような危うく過剰な感覚をもつとすれば、このイリーガルという存在が、どこか黒沢清の『回路』における(「タスケテ」とうめく遍在する無名の)幽霊たちとつながる感触をもっている点だ。(7話などは、もろに『回路』だし。イリーガルとはまさに、『回路』における消されてしまった存在の黒い染みそのものであるかのようだ。)『電脳コイル』は、子供向けのファンタジー的なアニメとしては、あまりに不穏な細部をも含んでいる。
しかし同時に、この作品は子供たち一人一人の感情や関係を、とても丁寧に拾い上げ、描いてもいる。不穏なものを含みつつも、通俗に流れることも、アートにはしることもない(『回路』のように世界を滅亡させたりはしない)腰の強い粘りと、仕事の丁寧さこそが『電脳コイル』の最大の魅力かもしれない。(全体のお話の流れからすると傍系なんだろうけど、11話の、自分が生息出来る古い空間と共に成長する魚型のイリーガルのイメージなど、すごく面白い。サッチーの造形とか、素晴らしい。)