08/01/06

●『ムーたち』(1)(2)(榎本俊二)。これは面白かった。この、とても複雑な組成をもつマンガについて、一読しただけで簡単には語る事はできないのだけど、この作品は、世界からノイズや破調を徹底して排除し、世界を記述によって外側から規定したいという強い欲望に貫かれているように思われた。その記述のあり様は、解説で斉藤環が書くように(しかしなぜこのようなコミックに解説がつく必要があるのかさっぱり分らないのだけど)、父と息子のペアである虚山親子(この作品において母親の存在はきわめて希薄で類型的だ)においては、真実ではなく記述装置の滑らかな作動こそが目指されるゲーム的な記述であり、孤高の求道者、規理野においては、正確な計測と計算にもとづく、真実を探求するかのような形式であるという違いはある。しかしどちらにしても、それは、世界から、不定形なもの、熱いもの、捉え難いもの、制御不能なもの、不確かなもの、恐ろしいもの、を、「記述すること」によって外側から形づけ、制御したい(排除したい)という強い傾きによって成り立っている、きわめて理知的な世界であろう。
このことは、3つめの「ニュートラリング」というエピソードに既にはっきりとあらわれている。このエピソードは、スクーターが故障して立ち往生してしまった母親を、父親が迎えにゆくという場面からはじまる。車で母親を迎えにゆく父親は、そこで猫を撥ねてしまう。この一連の場面で使われる擬音語は、プシュリ、プルリ、ブロリ、パラリ、カチリ、ピカリ、ガチャリ、パタリ、ポチリ、ブオリ....と、3音で最後に「り」で終わる音に、強引に整えられている。この安定したリズムと形式性が、猫を撥ねてしまうというショッキングな事態の生々しさを消失させている。そしてなにより、このエピソードでは、重たくて持ち上がらないスクーターを持ち上げるために「重い気持ち」を頭のなかで「ニュートラル」に設定しなおして、「重さ」の限界点を「頭のなかでずらせば」「いくらでも力がでてくる」ということになってしまう点に特徴がある。世界が「記述」の規則によって成り立っているからこそ、こんなことが可能になってしまう。このエピソードは後に、歯医者にいっても、「痛み」のニュートラルな点を設定し直すことで痛みが消えるというエピソードに受け継がれ、それはさらに発展して、痛みを「感じる」点を徐々にずらすことで、自分の体の外にもってゆくという荒技にまで発展する。
しかしこれだけでは、この世界はただルイス・キャロル的世界の延長にすぎないということになる。このマンガでもっとも面白いところは、世界を徹底して記述のもとに置くことで「外在化」させ、そこであらわれる世界から「熱」や「痛み」や「切迫性」を消し去り、その淡々とした表情(世界の自動化した進行)が魅力的であるのと同時に、その強引な記述のほころびがふっと垣間見せる、瞬間の寂寞感のようなものにもあると思われる。「ニュートラリング」でも、重さの設定をずらすことでスクーターを持ち上げることに成功した父親は、調子にのって事故にあった自動車までも持ち上げようとして、腕を「ボキリ」と折ってしまう。ここでも、物理的な限界は設定では動かせない、という別の理知的な記述によってその帰結は納得されるのだが、それでも、腕が「ボキリ」と折れる瞬間の衝撃は完全には覆い隠すことは出来なくて、この鈍い衝撃が「作品」を成り立たせている。
この父親が息子の無夫(ムーオ)の誕生日に買ってあげた本を捨てられるエピソード(「難解世代」)にも、このマンガの、熱や痛みを消失させることで「感情」を干上がらせ、理知的な記述が支配する世界りなかで、それでも干上がり切れない幽かな感情の残余のようなものの存在が胸をうつ。本を捨てる現場を目撃した父は、「誕生日のプレゼントをゴミ箱に捨てられる瞬間を生きているうちに見ることができるとは思わなかったよ」と息子に言う。これが決して「嫌み」ではなく、字義通りの意味しかもたないことは、この作品世界をここまで読んできた読者には明らかなことだ。「ボクはお父さんに貴重な体験をもたらしたの」と問う息子もまた、しらばっくれているわけではない。(「嫌味」のような、高度な対人関係の技法こそが、この作品で最も完全に排除されているものだろう。)そして父は「イエスかノーかでいうなら(ここでコマがかわる)イエスかな」とあくまで冷静に答える。感情が干上がった(というか、感情の表出形式がない)この作品世界では、このような婉曲的な形でしか感情は表されない。(表されないということはつまり、意識されないということだ。)難しくてさっぱりわからないから捨てたという息子に対し、今は難しくてもいつかは分るかもしれないと父は説得するのだが、結局息子は納得しない。つまり、父と息子の会話のゲームで息子が勝利する。(このゲームの展開が、この作品の面白さの「公式的」な側面だ。)ここまでならば、この『ムーたち』という作品世界内部の「規則」に厳密に従った展開だといえる。しかし、最後のほんの小さな3コマで、「お父さん やっぱり捨てるのやめるよ」と息子が言う夢を見て目覚めた父が、ゴミ箱の前で捨てられた本をみてたたずむ、という展開は、作品世界からの、ほんの僅かの慎ましい逸脱としてあり、その逸脱こそが、作品の(裏側の)魅力となっている。(両肘が関節と逆方向に折れてしまっても何の痛みも感じない得体の知れない父親が、ここで幽かなうずきのような痛みを感じている。)
そして、この作中でも最も表情の貧しい息子の無夫こそが、実は最も不安定な存在である。つまりこの作品は、表面上のクールで理知的な表情の裏に、あくまで世界の把捉不能な寄る辺なさに対する恐怖が貼り付いていて、その恐怖への抵抗(防衛)として、無表情と記述の過剰が選択されている。他人の存在が気になって落ち着けない、という無夫に、父親が、逆に「気になる」ことをノートに片っ端から書き出して、記述となることで無害化された「気になることたち」を使って遊戯すること(能動性を得ること)で、それを克服する技法を教えるエピソード(「過記帳」)などは、この作品そのものの創作の技法が明かされているかのようだ。
そして、作中もっとも魅力的な人物である規理野。彼は、あらゆることを記述し、そこに法則性(真理)を見出すことによって、世界の「外側」にたちたいと強く願い、それを日々実践している。虚山親子にとって、あくまで世界の恐怖や痛みから逃れるための技法としてあった記述は、規理野においては、完全な真理として把握されなければ気が済まない。虚山親子にとっては、いま、ここが外在化されればそれでOKなのだが、規理野にとっては、世界全体、時間全体が外在化されなければ(つまり「神」とならなければ)ダメなのだ。(だから規理野には、セカンド自分やサード自分は必要がない。)規理野は、虚山親子よりもより深く狂っているという意味で、より魅力的である。(しかし、手続きに多少問題があるとはいえ、これは正当に「科学者」の態度であろう。)勿論、彼のもくろみはことごとく失敗する。「赤いもの」の分布を計測していた規理野は、女性のスカートが風でめくられただけで、鼻血を出して自身も「赤いもの」の一部となり、世界の外へと脱出することに失敗する。公園の様子を毎日定点観測していた規理野の父は、そこに規則-真理をみつけ、その「外」に立つよりも先に、世界内部の規則に負けて、既に亡くなってしまっていた。(この作品のうつくしいところは、相容れない、しかし本来似た者同士である、規理野と虚山親子とに交流があるということだ。)