●『アニメ・マシーン』(トーマス・ラマール)の第二部を読んだ。主に、庵野秀明ガイナックスに関する考察。
この本は、思っていた以上にぼくの関心と重なるところが多い。この本は、アニメについての本であるのと同じくらいか、あるいはそれ以上に、現代のテクノロジー的な条件についての本であり、「テクノロジーの哲学」という色彩が強い。つまり、それ自身がテクノロジーと不可分であるアニメが、どのようにしてテクノロジーを思考するのか、というようなこと。現代のテクノロジー的な条件のなかで、アニメがどのようなものであり得るのかという考察は、現代のテクノロジー的な条件のなかで、「われわれ」がどのようなものであり得るのか(どのようなものとして現象しているのか)という問いにつながる。
あらゆるテクノロジーが軍事(軍需産業)に通じている、あるいは、軍事目的へと転用可能であると言ってよい。われわれの生活がそのような破壊と殺戮の技術の上に成り立っていることは否定しようがない。それらと完全に縁を切ろうとするのなら、グロタンディークがそうしたように、人間社会との関わりを一切断ち切って一人で秘境にこもるしかないだろう。宮崎駿の初期の作品の多くでは、テクノロジーの暴走によってほぼ壊滅してしまった後の世界が舞台となっている(「コナン」「ナウシカ」「ラピュタ」)。それがテクノロジーの必然であるという認識がおそらくある。この本で宮崎駿は、ハイデガーヴィリリオと併置される。そして、破滅の後も生き残った少数の人たちが(人間的なスケールに抑制されたテクノロジーによって)ささやかに暮らす世界でもまた、かつてあったテクノロジーを復活させて強大な権力を得ようとする一団があらわれる。それに抗するのは、(テクノロジーを再起動させるために必須の条件として設定された)身体的にテクノロジーと一体化したような特別な位置にある少女と、彼女の協力者である少年だ。
ここで宮崎駿はテクノロジーを否定しているのではない、と、ラマールは書く。テクノロジーを身体化した少女というイメージが示すのは、テクノロジーとの新しい関係である、と。とはいえ、彼女自身が破壊を必然とするテクノロジーの中心的位置を占めつつ、そのような破壊的テクノロジーと世界との共生を可能にするような「自由な関係」を表す存在としての少女とは、ほとんど神と同義であるしかないだろう。故に、(ハイデガーの「新しい神だけが私たちを救える」をもじって)《今や少女だけが私たちを救える》ということになる。
(ただ、ここで異論があるとすれば、神のような少女は宮崎作品においてもせいぜい「ラピュタ」までしか成立していない。逆に「もののけ」では、神の位置にいるべき少女が実は無力であり、世界がテクノロジーに埋め尽くされ、、囲い込まれ、科学によって書き換えられるのを止めることができないことこそが示されている。「もののけ」では「ナウシカ(少女=神)」の敗北が描かれているといえるのではないか。だからぼくは、「もののけ」以降の宮崎駿に興味があるのだが…)
庵野秀明は言ってみれば、「もののけ」において「ナウシカ」が敗北してしまった地点に、はじめから立っているといえる。
《『ナディア』では、シリーズを通して、囲い込んだり枠にはめたりする作用の規模がどんどん大きくなっていき、終盤のエピソードではついに、新たに建造されたノーチラス号が宇宙へと発進し、ジャンが〈地球〉を軌道から見るという規模にまで至る。ジャンはその美しさに驚異の念を覚え、どうして人間はこんなに驚異的なものをめぐって戦うことができるのかと疑問に思う。だが、このように〈地球〉を美しいものとして再評価するための条件は、テクノロジーのもたらした距離と分離であり、それが宇宙に浮かぶ〈青い惑星〉を切り離して枠にはめる役割を果たす。(…)軌道から見た〈地球〉のこのイメージは、自然界が広大な囲い込みに、つまり巨大な公園や保留地に変わるという感覚の上に成り立っているのである。》
ハイデガーの言うテクノロジー的な条件では、科学技術的な実用=道具性によって自然は在庫(スタンディング・リザーヴ)に変容し、世界はイメージとなって把握され利用される。ハイデガーにとって近代とは、「世界像の時代」、あるいはレイ・チョウが注釈しているように、「世界標的の時代」である。宇宙から見た〈地球〉の眺めは、〈地球〉をイメージにし、ひいてはそれを標的にする。一気にまるごとわしづかみにして、一目で捕捉し、一撃で粉々に吹き飛ばすことができるようなものにするのである。》
《『ナディア』はしかし、ポスト・ハイデガー的である。それは、近代についてのハイデガーのヴィジョン以降のものであるとか、それと断絶するものであるとか、それを克服するものであるといった意味ではなく、ハイデガー的な近代が、否定しがたく、取り返しがつかず、そうして擁護不可能で救済不可能なものになってしまったという意味で、ポスト・ハイデガー的なのである。取り返しがつかず救済不可能という、近代のテクノロジー的な条件の本性は、人間が在庫に変わり、人間性が人間像に変わることでより強められる。人間性の全体、すなわち人間の身体と魂はすでに、遺伝子操作や洗脳という形で、実用=道具的な利用に従属し、それによって使用可能なものとなっている。つまるところ、エイリアンという種が人間と言う種を生み出し、その信条や歴史を操作してきたのである。》
●ここでは、宮崎がモダン、庵野ポストモダンとされるのだけど、そこには断絶や克服があるのではなく、ほとんど同じテクノロジー的な条件を、まだ救済可能とみるか既に不可能とみるかの違いしかないことになる。
《『ナディア』は結局、近代についての古典的な物語を「オタク化すること」、つまり宮崎をオタク化することを狙っているのである。その限りでこの作品は、知覚のきわめて近代的な構造(パノラマと一望監視施設)と、ポストモダン的と称される、オタク的な形式による知識とイメージの生産とのつながりを私たちが知覚できるようにしている。この点で、『ナディア』は岡田(そして彼に続く村上隆のようなオタク論者)とは違っている。岡田(斗司夫)は、ポストモダン的なオタクのイメージ化を、前近代もしくは江戸時代の営みと直接結びつけ、そうして近代を迂回して日本を近代の外および彼方に置いている。対照的に『ナディア』では、「外部」の喪失は、デカルト的な主体のテクノロジーによる囲い込みに基づいている。『ナディア』はある意味で、〈神〉の失墜と〈人間〉の登場という古典的な物語の焼き直しである。そこでは、〈神〉が宇宙からのエイリアンだということが明らかになり、〈人間/男(マン)〉が男性オタクになる。人間が知識と歴史の主体であると同時に対象であるという、ヒューマニズムダブル・バインドが、操作される側であると同時に操作する側でもある男性オタクのダブル・パインドになるのだ。》
《(…)ジャンが科学と発明を追求する姿勢にポスト啓蒙主義かつオタク的な光が当てられる。ジャンが科学とテクノロジーに没頭すれば、世界に対する絶対的に優位な位置と、すべての問題を科学的に解決する普遍的な知識がもたらされるはずだ。しかしこれは、発明品への没頭がすでに基本的なテクノロジー的な条件――あるいは、いわば囲い込み――であるような、ポスト・ハイデガー的な世界である。(…)まるでどの発明も、テクノロジーに付随する局地化された知識形成の果てなき連続に加えられた、単なるもう一つの発明にすぎないかのようである。それぞれの発明は、より合理的な見方や、さもなければ、世界に対するより優位な位置をもたらすわけではない。それは多くの参照枠のうちの一つにすぎない。だが今や私たちは、さまざまな参照枠が――相対化されているにもかかわらず――知識を生産するのを目にしている。この点で、参照枠とは本当の意味で領域なのであり、そのポテンシャルな奥行きや広がりは、神、アイドル、図像、弾丸、メカ、宇宙船などの発明の追求の中で、特定の照準線とともに現れてくるものである。ジャンの発明はすべて、新たな神である少女ナディアを喜ばせるように設計されたものなのだ。普遍的な知識が不可能であるとすれば、それは、世界が外部にはないからである。世界は常に内部にある。なぜなら世界はテクノロジーによって、絵に描かれて枠にはめられているのだから。》
宮崎駿の神=少女は、テクノロジーと世界との間に、新たな「自由な関係」を可能にすることで、世界を救い、人類を救うが、庵野秀明の少女=神は、ただ一人の「男性オタク」のみを救う。この違いは、テクノロジー的な条件をどうみるかの違いだともいえる。しかし両者とも、この帰結に決して満足はしていないようにみえる。「ラピュタ」以降の宮崎作品には神=少女は登場しないし、「ナディア」の後、庵野秀明は四年間も仕事をしない。
《二人の監督の転換点が、テクノロジーに関するある種の物語をアニメーション化する過程で起きたことは興味深い。そこでは、大量破壊兵器と世界の滅亡が、科学技術による進歩の論理的な帰結として現れている。さらに、両監督は、少年のようにテクノロジーに魅了されることがその問題の核心だと見なすようになり、それをオタク活動のようなものと結びつけることになる。》
●両監督にはそれぞれ方向性の異なる「オタク嫌悪」があるが、しかし、どちらも強烈にオタクであることは間違いないだろうし、オタクであることによって彼らの作品の「思考」が可能になっていることも間違いないと思われる。