●『ふしぎの海のナディア』を、ずっとちびちびと見ているのだけど、不思議な作品だとつくづく思う。宮崎駿(+様々なアニメの要素)のパロディのようにしてはじまり、少しずつ話が誇大妄想的に大きくなっていって、だんだんと「エヴァ」のプロトタイプのような作品に移行してゆく(物語の構造から、メカのデザインや場面のイメージ、そして、ナディアが慣れない料理をした結果たくさんの指に包帯が巻かれることになる、といった細部まで、様々なエヴァ的要素が次々あらわれる)、というのも面白いのだけど、それより変なのは、ナディアというキャラクターがどんどんおかしくなってゆくことだろう。
ナディアのキャラには最初から、紋切り型としての「女の子の気まぐれやわがまま」という要素はスパイスのようにして含まれてはいた。しかしそれが、物語が進行するにつれてどんどん拡大してゆく。特に、無人島に漂着して以降のナディアは、ほとんど狂人といっていいレベルにまで達している。
ジャン(主人公の少年)が、漂着した三人(ナディア、ジャン、マリー)と一匹(キング)が無人島でも生きていけるようにと様々な努力をしている時、その一方で、ナディアは、いきなり意味不明のハイテンションになり、今日からわたしは自然と生きることにした、生まれ変わった、などといって一人でジャングルに入っていってしまうし、結局一人では生きてゆけなくて、あきらめてジャンたちに合流したかと思えば、ジャンが作った、海水から真水をつくる装置を不注意で壊してしまい、自分の不注意で壊したにもかかわらず「だから科学なんて信用できない」とか逆ギレしだす始末だし、ジャンが苦労して集めた食料を前にして、動物を食べるなんて信じられないと激しく責め立てるし(ナディアは動物を殺すことを極端に嫌い、野菜しか食べない、しかし、動物は食べないのに卵は平気で食べる、「動物じゃないわ、卵は卵だもの」)、かといって、自分で食べられそうな植物を見つけようとする努力をすることもなく、(ジャンが気を使って探し出してくれた)残り少ない漂流物のポテトの缶詰を消費するだけで、ひたすら不機嫌さを増してゆく。そうかと思えば、病気になった自分に尽くしてくれるジャンをみて、感激していきなり好意を増大させ、ほとんど意識不明のジャンに一方的にキスをしたりする。しかも、それをジャンが憶えていないと(ほぼ意識不明だったので当然なのだが)、一転して不機嫌になる。
ナディアが、極端に不器用で、サーカスの曲芸以外は役に立つことはなにもできないキャラであることは、ここまでの物語で何度も描かれてきたし、一方的に強く感情を押し出して、他人の言い分はほとんど聞き入れず、それによって孤立しがちだという側面をもつことも描かれている(最初にあった、紋切り型としての気まぐれやわがままが、その程度にまで増幅、発展されていた)。しかし無人島以前は、ノーチラス号に乗り、戦争をしている大人たちの軍隊組織の内部にいたことで、彼女の無能力は大人たち(主に父)によって補われ、彼女の感情は状況の厳しさによって抑制されざるを得なかった。
それが無人島へ漂着して、大人たちからも戦争からも離れることで、無能力と感情の強度が抑制をなくして暴走し、ほとんど純粋状態になって解放されてしまったという感じだ。ナディアは、ただ感情としてだけ存在する「感情生産マシーン」のようになって、極端から極端へと不安定に移行する感情そのものとなる。
(「ナディア」は、もともとは宮崎駿が連続テレビアニメとしてたてた企画で、ボツになったのでそれを劇場用の長編アニメとして練り直してつくったのが「ラピュタ」であるそうで、だからナディアとシータとは分身のような関係なのだが、ナディアは宮崎ヒロインにはあり得ないようなキャラになった。)
●ここで面白いのは、ナディアのこの感情の極端な増幅が、この作品の骨組みとなる物語とほとんど関係がないということだろう。いや確かに、無人島での場面の前に、彼女が嫌っていたノーチラス号のネモ船長が自分の父親であったと分かる場面があり、ずっと自分の出自が不明であったナディアにとって、「父が分かったこと」「父がネモだったこと」「父との別れ」という三つの大きな(そして複雑な)出来事が同時に起こっているので、心理的に大きなショックを受けているということはある。とはいえ、そのような心理的なショックの表現としては、無人島での顛末が適当なものとは思えない。無人島の場面は、それ以前のノーチラス号での顛末から切り離されているかのようだ。
構築性の高い、スケールの大きい(というより誇大妄想的な)物語が一方にありつつ、そのような物語を、個人的な事情や感情の表現の強さが振り切ってしまい、そっちの方が勝ってしまう、あるいは両者が不連続的に切り離されてしまう、という傾向は「エヴァ」にも強くあるのだけど、「ナディア」の無人島の場面では、それがより明確に、より純粋な形ででているように思う。ナディアのこの「感情」の激しい振幅の表現は、ナディア個人の事情ですらない(個人の事情からさえも切り離されている)。
●とはいえ、このようなキャラを、観客はどのような感情で受け止めればいいのだろうか。ナディアというキャラは、放送された当時に絶大な人気があったということなのだが、ふつうに考えればたんに「いやな奴」というか、むしろ「やばい人」ということにもなりかねないナディアのキャラが。多くの人の感情を強く引きつけるというのが不思議だ。