●例えば、りんごを描いたある絵をすごいと思うとしたら、それがどれだけ「実物のりんご」似ているかというところに驚くのではなく、その絵を観ることで、実物のりんごを見ている時には気づかなかったような、「ああ、そうか、りんごってこういうことなのか」という事に気付かさせてくれるというような時だ。それと同様の感覚を、YouTubeで見つけた、喜多村英梨による碇シンジのモノマネから得た。
https://www.youtube.com/watch?v=RhGamRKEjYI
喜多村英梨という「別人」を間にひとつ通すことで、碇シンジ碇シンジ性が露わになっているという感じ(でもこれ、編集がイマイチなのだけど…)。
(今、ラマール「アニメ・マシーン」の第二部に関連して、「ナディア」と「エヴァ」を観直していて、さらに、第三部で検討されるという「ちょびっツ」という作品――この作品のことは知らなかった――を、三部に入る前にぽつぽつ観たりしていて、アニメに浸かっている感じだ。)
庵野秀明の作品では、「ナディア」でも「エヴァ」でも、誇大妄想的に組み立てられ、拡張された、世界と謎をめぐる構築的な物語が、最終的には、個人の心の葛藤のような次元に収束してゆく。だがここで、キャラ個々人が抱えている個別の事情やドラマやトラウマの内容は、それほど重要だとは(面白いとは)思えない。それぞれキャラが抱えている感情や葛藤の質は、主にキャラクターの造形によって表現されているように思われる。
例えば色。レイは水色と白、アスカは茶色と赤、シンジは黒と白、ミサトは紫と赤、リツコは黄色と白、カヲルはかぎりなく白に近いグレーと白。これはたんに髪の色と着衣の(主な)色との組み合わせの印象を書き出しただけだけど、これらの二つの色の組み合わせが、キャラクターの性質をある程度表し、それぞれの感情の質を色彩のスベクトラム中のある領域の分布と結びつける。つまり、キャラ固有の色彩感が、背景の色彩や他のキャラの色彩との対比的関係の内に入り、その中で相互作用するようになる。
勿論、色彩だけがキャラ(感情の質)を表現するのではない。例えば、碇ゲンドウはそれほど特徴的な色彩的な性質を持たず、その特質は主に、メガネのような小道具と独自のポーズによって表されている。小道具やポーズという、キャラの固有性の表現の別の系列がある。ゲンドウの「壊れたメガネ」をレイが所有しているという事実は、その理由となった出来事(という説明)がないとしても、ただそれだけで、二人の関係を強く表現する。あるいは、何度も何度も現れる、うなだれたシンジの頭頂部は、その反復性によって強い表現性をもつ。
貞本義行によるキャラクターデザインでは、人物たちの体型は独特の歪み方をしている。これはたんに貞本の手癖による歪みではなく、登場人物それぞれが、自らの質を表現するような個別の歪み方をみせている。特に、シンジの体型の歪み方は非常に創造性が高いものだと思う。
そして声。アニメの声は多くの場合、分かり易い類型に基づく。少年には少年の声や発声、抑揚などの類型があり、イケメンにはイケメンの、ピッチにはピッチの類型があり、その類型の範囲内で細かな差異やバリエーション、揺らぎなどの洗練が生じる。「エヴァ」の声の配置も、大きくみればアニメ的類型に従っているが、しかし不安定度が高いように思われる。その発声は、アニメ的類型と実写ドラマ的演技との中間にあって揺らいでいるようで、それがキャラの位置の定位を不安定にする。キャラたちは、固定した役割とそこから零れ出る流動性の中間にいる。
シンジは、しばしば絶叫したり取り乱したりするし、一方、落ち込んでシュンとする場面も多く、過剰や抑揚が求められる大げさな演技によって表現されるが、その独特のつかみどころのない発声によって、声が強く前に出てくる感じが少ない(張りのある、はっきりした声――ミュージカルみたいな――ではない)。体全体を震わせる血の出るような絶叫という感覚を得るのと同時に、しかしそれがそれほど強く前に――他者に向かって――押し出されない感じも得られる。全力で絶叫している時でも、三分の一くらいどこかから息が漏れていて、全力を出すと同時に揺らいでいる感じ。感覚の強度が強い像に結びつかないような感じ。それによって、内向的である同時に、内に大きな揺らぎを抱えている様が表現される。
色彩、ポーズや小道具、体型、そして声、等々。様々な異なる要素の交錯・合成として、あるキャラのもつ、一つの感情の質、および波立ちのようなものが創造される。それは、物語上の役割や、設定として与えられた過去(背景)以上に強いものとして、われわれの感覚に対して作用する。
このような「感情の質」としての、シンジのシンジ性のリアルさを、喜多村英梨によるモノマネが宿しているように感じられた。
●ところで、「人類補完計画」とは、個々人を隔てる壁(ATフィールド)を取り除き、すべての人が直接的に相互作用できる空間に移行することだと言える。だがそれは、諸星大二郎の「生物都市」のような、人類が一つに融合するという幸福なイメージとかなり違っているように思われる。壁や距離が取り払われただけで、それぞれのキャラがもつ、個別の「感情の質」はそのまま維持されているので、つまり、葛藤や対立といった相互作用が中間的な媒介なしに直接的に行われるようになった、という感触なのだ。つまり、葛藤や対立がより生々しく、直に、凝縮された形で、しかも寄せては返す波のように果てしなくつづく場であるように見える(テレビ版25話26話)。
だから、テレビ版25話26話で起こっていることは、この作品でそれまで行われてきたことを、抽象的な場(現実の条件である時間と空間が崩壊した場)において、凝縮した形で再現することだったのではないか。そこでは、人類が融和するどころか、それぞれのキャラの個別の「感情の質」がよりくっきりと際立つように感じる。陰謀論的な「世界の謎」は消え、個々のキャラクターという形で表現される「感情の質」のコンクリフトだけが残る。そしてそれは、アニメというメディウムを解体寸前に追いやるほどの強さを得る。
(25話26話では、ほとんど「絵が動いていない」ことに驚く。アニメーションの根本を否定しかねないような形で、アニメーションの表現をここまで高揚させたという意味で、テレビ版のラストの方が、同様のことを大スペクタクルとして組織し直そうとした「Air/まごころを、君に」より優れているようにも思われる。)
このような、激しくもとりとめのない「感情の質」たちの対立や葛藤は、唐突に、学園ラブコメ的な紋切り型世界へと転じて、作品は収束する。このラストは今観てもかなり強烈だ。人類補完計画後の世界は、あまりにハードで、かつ、とりとめがないので、ここで再び「紋切り型」という媒介を導入しなければならなくなる。紋切り型という媒介を通じて、他者と相互作用する世界へ、と。リアルな「感覚の質」としてのキャラクターではなく、類型的なキャラとして。これが人類補完計画の帰結なのか。
エヴァンゲリオンがさらにわかる動画:旧【最終調整版】
https://www.youtube.com/watch?v=TeoFnVoiQAs