2021-11-01

●昨日の日記を書いていて思ったのだが、新劇場版「エヴァ」は、アスカとマリの関係を軸にしてリビルドすると面白くなるのではないだろうか。アスカの子供時代のトラウマに遡行するのではなくて、アスカの現在の闘いを描いていくような感じで。

エヴァ破」から「エヴァQ」までの空白の14年の間に、アスカとマリのパートナーシップがどのように変化し、深化していったのかを中心に据えながら、その背景として、ミサトや赤城博士、加持などの動きがあり、ヴィレの成立や、ヴィレによるネルフ(ゲンドウ)に対するレジスタンスがどのように行われ、ゲンドウや冬月がそれにどう対処したのか。そして、14年ぶりに戻ってきたシンジをどう受け止めるのかということについても、シンジの側から描くより、受け入れるヴィレの側から描いたほうがおそらく面白いと思う。

(まあ、それはもはや「エヴァ」ではないが…。)

「新劇場版」の特徴は、(90年代にはとてもリアルだった)「シンジの感情」にもはやリアリティがなくなってしまったというところにあるのではないか。だからこそ「エヴァ破」のポップさが可能になった。「エヴァ破」によって、ウジウジして、かつドロドロし、ウツウツとしていたシンジはすっかりすっきりしてしまい、だからその後の「エヴァQ」でどん底に突き落とされたとしても、自分はシンジなのだからシンジのキャラを演じなければとばかりに、悩んだり落ち込んだりしている風に振る舞っているように見えてしまった(いや、それは言い過ぎだが、その落ち込みに、こちらの感情までが引っ張られるほどの強さは宿らなかった)。

エヴァQ」では、シンジよりも、ミサトやアスカなどヴィレの人たちの方があきらかにずっとシビアな状況にあってキツそうだったし、だから、物語がヴィレから離れて、シンジとカヲルくんに集中すると退屈に感じてしまった(最初の30分はすごく面白いと思った)。シンジの感情にそこまで付き合ってはいられないと思ってしまう。

エヴァQ」の後半のカヲルくんとの場面、そして「シン・エヴァ」の出だしの第三村の場面は、どちらもシンジに対するセラピーの場面だと言えるが、そもそも「シンジの感情(落ち込み)」自体にリアリティがないので、そのためのセラピーにもリアルさや切実さが宿らない。

エヴァ破」でポップなシンジをつくり出してしまったため、終幕に向けて、もう一度、ウジウジ、ドロドロしたリアルなシンジを取り戻すためにどん底へ突き落とす必要があり、その必要のために「エヴァQ」があったのではないかと推測するのだが、もはや「リアルなシンジ」を取り戻すことはできなくなっていて、それよりもむしろヴィレの人々の方が面白くなってしまったが、「エヴァ」である限りシンジを中心にするしかなく、父(ゲンドウ)を倒す息子(シンジ)というありふれた構図にするしかなかった、ということなのではないかと思った。

(「エヴァ破」の路線を引き継いで、そのまま「ポップなエヴァ」にするという選択肢もあったはずだが、そうはしないという選択を示したのが「エヴァQ」で、それでまた少し「エヴァ」への関心が戻ったのだが、その方向にちょっと無理があったということかもしれない。)