2019-07-08

●「シン・エヴァ」の冒頭10分の映像がすばらしくて、何度も何度も繰り返して観てしまう。「エヴァ」という、(比較的しがらみが少ない自由度で)お金も人材も時間も、大量に投入できるコンテンツだからこそ可能になった映像なのだろう。たんに予算が潤沢だということではなく、作り手本位に贅沢に作られている感じがある。

Evangelion 3.0 + 1.0 First 10 minutes preview High Quality Sub ENG (Japan + French Streaming Audio)

https://www.youtube.com/watch?v=r2UKYBNSRaI

まず、エヴァや戦艦がワイヤーで吊られて宙に浮いている感じになっているところが面白い。これは、実際にワイヤーで吊っているということではなく、重力制御を実現したヴンダーからのオペレーションによって宙に浮くことが可能になっているということの表現だろうと思うのだが(そして、こういう表現にしようというアイデアは特撮からきているのだろうが)、「ワイヤー」があることで、この戦闘場面において、浮遊感と重力感との絶妙な混合が実現されているように感じられた(飛行機が飛んでいるような飛び方でもないのだが、重力からまったく自由に浮いている感じでもない)。重力が働いているところで、重たいものが無理矢理に浮いている感じになっていることで実現されている、不思議な(無)重力感があると思う。

(たとえば、エヴァは宙に浮いているが、エヴァの持っている機関銃は落下する、など。)

それに対し、パリの街の描写ではがっつり重力が効いている。たとえば、ヴンダーからの制御を失った戦艦がエッフェル塔に直撃し、エッフェル塔が崩落するカットのすばらしさ(あと一秒くらい長く見せて欲しいと思うのだけど、いいところでスパッと切られてしまう)。このかっこいい崩れ方は、おそらく物理エンジンによるシミュレーションとかによってつくられたのではなく、アニメーターによって手で描かれることでつくられた「崩れ」なのではないだろうかと思う。物理的な正確さというより、描かれたアニメだからこその重力感が優先されている感じというか。

そして、なんといっても(誰の目にも明らかだろうが)、3DCGによってはじめて可能になる、自在にくるくるとまわるカメラワークがすごい。しかしこれも、3DCGをそのまま使っているというより、3DCGでつくったモデルをもとにして、2Dアニメ風に動くように改めて手で描き起こすことでつくられているのではないかと思われる。

(ちょっと「トップ2」を発展させたような感じで、この場面のエヴァの動きは鶴巻テイストなのかもしれない。)

(エヴァの肩が縦にも横にも360度自由に動くようになっているというデザイン---そして、それについてのマリのコメント---は、3DCGによる自由すぎる視点移動---と、それに対応させられるアニメーターの感想---からきているのではないか、とか。)

(メカ類のデザインの面白さとか、パリの街が城塞化する描写のかっこよさとか、エッフェル塔の描写の密度のすごさとか、言うまでもない。)

●物語的にも、割とポジティブな方向に向かえそうな感触があってよかった。「エヴァ破」の明るさは、嘘くさい、無理矢理に作られた明るさみたいに見えて、それが「エヴァQ」でどーんと暗い底まで落とされて、これこそが「エヴァ」だとは思うものの、そのままダークで終わるなら旧劇場版と変わらないことになってしまう。でも、最後にはちゃんと、いったん壊れてしまった世界を、なんとかみんなで少しずつリビルドしていこうみたいな、(嘘くさくはない程度の)希望を含んだ方向にもって行けそうのルートがみえた感じ。

(とはいえ、簡単に希望などとは言えない、非常に厳しくピリピリとした状況ではあることは確かで、ピリピリして刺々しく張り詰めた雰囲気の映画にはなりそうな感じ。登場人物たちもみんな---マリを除いては---ピリピリしているし。マリの過剰な「おちゃらけ」は、ギスギスした緊張を緩和するという意味でも、逆に、張り詰めた緊張を対比的に際立たせるという意味でも、重要なのだと思う。)

(その時に「敵」となるのが、いつまでも「若き日の夢」を忘れられないネルフのおっさんたち、ということになるのか。ただ、ベタに世代間抗争みたいな単純な話にはならないだろうけど。)

(ヴィレとネルフの闘いは、ちょっと、『ゼーガペイン』のセレブラムとガルズオルムの闘いに似ている気がする。)

(ただ、「シンジ」をどうするのか、というのは、そんなに簡単な問題ではないのだなあ。)

(九十年代に、「エヴァ」のテレビシリーズをつくっていた頃には、庵野秀明はシンジに自分を投影していたのかもしれないが、社会的にも充分に成功し、歳もとって、現在ではあきらかにゲンドウの方に近い位置にいる。おそらく、「エヴァ」をつくっている人たちのうち誰一人として、素直にシンジに自己を投影できる人はもはやいないだろう。シンジの感情だけを作品の推進力にするわけにはいかなくなっている。作品が成功して、あまりに長くつづいてしまったことで、どこに軸を置いて作ればいいのかが絞りにくくなっているのだろうとは思う。その意味でも、マリのような新しい人物が前景に出てきたり、いきなり14年も時間が飛んで、ヴィレのなかに---シンジたちよりも---若い世代が出てきていたりするという「飛び道具」的な展開にも、必然性があったのだと思える。)

●最初の10分くらいのクオリティの戦闘シーンが、本編にあと二回か三回くらいあってくれれば、話がぐだぐだでも納得するという気もする。