2021-10-31

●今まで、カードがないとアマゾンプライム会員になれないと思い込んでいたのだけど、アマゾンギフトでも毎月定額支払えば会員になれると知って、さっそく会員になり、ほんとうに今更なのだがようやく「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観た。で、あー、これは自民党が選挙で勝つわけだ、と思って脱力した。

いきなり、ポストポカリブスのコミュニティが(幻想の)昭和ノスタルジー感満載で、うわーっと思ったのだが、こういうものを抵抗なくつくってしまえる想像力も、それをすんなりと受け入れてしまえる観客も、ちょっとヤバいのではないかと感じた。「保守的」という概念を見事にイメージ化している、とも言える。庵野秀明が骨の髄まで昭和のおじさんなのは仕方ないとして、受け取る側が、これにひっかかりを感じないということはないと思うのだが…。これが「国民的なヒット映画」だというのは不味いのではないかと、柄にもなく思ってしまった。

(冒頭のパリの場面がほんとうにすばらしいので、その後にくるのが昭和ノスタルジーであることへの失望が大きい。)

(ヴィレのなかには、一応、申し訳程度の多様性はある感じだけど…)

食事をとろうとしないシンジを叱りつける、トウジの妻の父親に、あそこまで昭和のオヤジ感を出す必要あるのか、とか。そもそもこの映画は、マリの歌う昭和歌謡からはじまるのだが、まあそれは、マリが歌うことによる異化作用があるわけだが、その後でこんなにベタに昭和がくるのか、と。昭和ノスタルジー世界のなかで黒綾波が「感情」を獲得していく過程の白々しさ。幻想の里山的コミュニティから家出したシンジがたどりつく場所が、ロマン派絵画のパロディのような風景(廃墟と険しい山々)なのも、紋切り型すぎて、うーん、となった。

おそらく誰もこの映画に、新しさ(新鮮さ)や知的な刺激、論理的な納得というものを求めてはいないくて、観客はただ、長年「エヴァ」にひっぱりまわされてきた感情の落しどころを与えて欲しいと思っているのだろうから、とにかく、あらゆる登場人物に、納得しやすい紋切り型の落しどころをつくってあげるというのがこの映画の最大の目的なのだとすれば、これが正解なのかもしれないが(ゲンドウの自分語りとか、「いや、まあ、それはそうなんだろうけどね…、というか、それ言わなくても分かってるから…」と思ってしまう)、みんなが欲しいのはこういう説明と納得なのか、と思いながら観続けていると、心がだんだん空しくなっていくというか、倦むのを感じる。保守化というのは、思想や政治的信条のことではなく、こういう感覚(こころもち)のことなのだなあと思った。アニメーションの技術としてはすばらしいので、やたらと豪華でしかし空疎な神殿を眺めているかのようだった。

(でも、戦闘シーンなどは、豪華なイメージのインフレーションになってしまっているようにも感じた。)

ただ、この作品の、アスカの荒んだ感じの描写には強さを感じていた。アスカはここで、若さも性的魅力も成熟さえ剥奪されて、ひたすらギスギスして荒んでいる。ケンケンの家で全裸でうろついていても二人の間に性的な関係があるようには感じられないし、シンジでさえアスカを性的に見ていない。そのようなアスカの徹底した荒みの強さ(荒んで当然という環境を強いられているのだが)を見ると、この物語をもっとも苛烈に生きているのは、つまりこの物語の中心にいるのは(物語の最大の被害者なのは)シンジではなくアスカの方ではないかとさえ思えてくる。というか、意識的にそのように表現されているように思われた(そのような荒んだアスカをマリが「姫」と呼んでいるのもよくて、アスカとマリの関係は面白いと思った、マリは、シンジではなくアスカを「迎えに行く」べきだったのではないか)。

しかし、最後の方になってシンジによって回収されたアスカは、恥ずかしいほどあからさまに性的なイメージとして描かれる。えっ、ここでも(観客へのサービスのために)譲歩しちゃうのか、とがっくりきた。

(何よりの優先事項が、観客に対して「登場人物たちへの感情に落しどころをつくる」ことなので、たとえば加持のやっていた「ノアの箱舟」のような計画とか、ループものみたいな設定とか、そういう物語の骨組みのところが全部とってつけたようになってしまった感がある。)

エヴァ」は90年代には挑発的な作品だったはずだし、「シンジの感情」も、表現として新しいものとしてリアルだったはずなのだが、「シン・エヴァンゲリオン」ははじめからそのような作品ではなく、『男はつらいよ さよなら寅さん』(そのような映画は実在しないが)みたいな映画だと思って観れば納得できるのかもしれない。そういう意味で、庵野秀明の「勝ち」なのか。