●「Air/まごころを、君に」を改めて観てみたのだが、アスカに対する仕打ちがあまりに容赦がないので、観ていていたたまれなくなった。いや、もともとこれは「みんな死んでしまえ」というような世界への憎悪の気分に支配された作品ではあるけど、それにしても特にアスカに対する仕打ちがえげつない。
精神崩壊していたアスカがやっと復活して、かなり強引で危ないメンテリティによっているとはいっても、ともかく大活躍をして、おーっ、ようやくアスカが復活だと喜んでいる暇もなく、その活躍が全部無意味だったということになった上に、槍で刺されて再び沈黙、で、それっきり…。
エヴァ」全体においてもそういう傾向はあるけど、特にこの作品においてアスカは、男性が女性に対してもつ欲望と憎悪を、無媒介に浴びせかけられる生贄のような存在に思える。観客は、攻撃的なアスカに罵倒されることに萌え、とことんまで落ち込んだアスカに萌え、敵をなぎ倒すアスカに萌え、敵に容赦なく痛めつけられるアスカにもまた萌える。
例えば、アスカと同様、ウテナもまたトラウマをもつ。しかしウテナのトラウマは「王子様との約束」に捉えられることであり、トラウマに捉えられることの効果として、意志のようなものをもつ。ウテナの行為には、揺れや迷いがあったとしても、一貫した意思が感じられる(それは、「エヴァ」内ではミサトに近い)。一方、アスカの行動の原理はトラウマから逃れることだ。そこから逃れるために、極端なアッパー状態が要請される。そして、逃げ損なうと、極端なダウナー状態が訪れる。アスカの「意思」は、このアッパー状態を導き保つためのものであるという強迫的な感じが強く、ウテナ―ミサト的な一貫性、安定性を欠いている。だから、その意志(意識)は仮りのものという感じが強く、やや平板で、極端なアッパー状態と、極端なダウナー状態の激しい落差に翻弄される姿こそが、アスカというキャラクターを特徴づける。
作品内で、主人公のシンジの性的な対象となる女性は、レイとアスカとミサトの三人だと思われるが、シンジは、レイとミサトに対してはある「遠慮」のような感覚がある。あるいは、一定の「敬意」や「恐怖」を感じている。レイは、謎の深みによってシンジを魅了し、ミサトは、揺らぎを孕みつつも、自らの役割を全うしようとする一貫性よって、シンジにあこがれや頼りがいや敬意を感じさせる。だが、アスカはどうか。
綾波ミサトさんも怖いんだ、だからアスカが助けてくれよ」意識のないアスカと、幻想のなかのアスカに向かってシンジは言う。これはシンジ心の叫びであり、いくらシンジといっても、意識のあるアスカに向かってこんな自分勝手なことは言えないだろう。
シンジにとってアスカは、一方で、あまり理解できない(というか、馴染み難い)他者であり、しかしだからこそ、もう一方で、幻想の内部では徹底して都合のよい(遠慮する必要のない)「萌え」の対象でありえる。だから、アスカに「意識がない」限り、シンジはいくらでもアスカに甘えることができる。シンジは、意識のないレイや、意識のないミサトを見てマスターベーションをしたりはしないのではないか(シンジは、レイやミサトの「謎」や「意識」にこそ惹かれているから)。
エヴァ」という作品において機能するアスカの「他者性」というのは、そういうものなのではないかと思った。アスカはどこまでも他者であることによって、どこまでも表層的イメージに留まり、故に、いくらでも遠慮なく幻想を付与できる存在なのではないか。だからアスカは、容赦なく欲望や憎悪の対象となり、この作品であんなにも酷い目にあうのではないか(レイは身体的に「傷だらけ」になるが、それが精神―魂―謎の表現となる、しかし、アスカは、精神的にダメージを受け、精神―意識そのものを剥奪される)。作者(あるいは、作品精神、そして観客)もまた、シンジと同様にアスカに甘えているとも言える。
(最後に「気持ち悪い」という拒否の意思表示をするだけでは、アスカにとっては、この酷い仕打ちに対してまったく釣り合っていないように思われる。とはいえ、この「拒否」のみが、アスカに意思が存在することの証しだと言える。)
謎や魂(奥や底に隠されている何かの気配)に魅了されるレイ派と、表層的であることの他者性に魅了されるアスカ派、というまとめは安易すぎるか。
●この作品を観ると、後の「エヴァ破」というのは、キャラクターたちへの罪滅ぼしというか、せめてこの作品のなかだけでは、みんなに「ぽかぽか」してもらいたい、ということなのかもしれないと思ったりする。「エヴァ破」でも結局、アスカは酷い目にあうが、「エヴァQ」では立派な人に成長しているので、ちょっと安心する。とはいえ、「エヴァQ」でもアスカは、過剰な重みを背負わされているのだが。