●ようやく『シン・ゴジラ』を観たのだけど、ぼくにはダメだった。「プロジェクトX」かよ、みたいな感じがダメだ。
いや、確かにゴジラの形態変化とか、ゴジラが東京を焼き払うところとかはすごいけど、話が面白くない、というか嫌だ。
(「エヴァ」のシンジが、「ゴジラ」の長谷川博己みたいなキャラだったら、それは面白くならないよなあ、とも思った。)
それでも前半は、面白くはないけど、まあ、納得して観てはいた。テンポの速い台詞でぱぱっと場面を展開してゆくこと、まるで「エヴァ」そのままのフレーミング、ゴジラの様子と政府の対応だけで、中途半端な人間ドラマ的要素をすっぱり抜いているところなど、まあ、クレバーなやり方だな、と。「ゴジラ」というありものの企画を、そつなくこなすやり方としては頭がいいなあ、と。
でも、後半は退屈に感じた。単純に、俳優の演技のクオリティを管理できていない感じがした。前半の演出プランの水準でいくならこのテイクはNGではないか、という演技のクオリティのカットがままあった。それと、早口がデフォルトでなくなったとたんに演出のクオリティががくっと落ちるように思う。クローズアップの演技とモンタージュがイマイチ。人間たちが集団でいる場面はそこそこなのだけど、人と人とが一対一で話しているような場面になると、演出が凡庸になるように思われた。
でもまあ、庵野秀明はもともと実写の監督じゃないのだし、そういう細かい技術的なところはどうでもいい。そういうことじゃない。
前半の、政治家や官僚たちの会議の部分は、それなりに恰好がついているように思えたけど、後半になって、はぐれ者たちのチームの場面になると、弛緩してしまっているように思った(前半の政治家たちの場面が、固定カメラで「エヴァ」的フレーム、後半のはぐれ者たちのチームでは、やたらと移動するカメラ、という対比は単純すぎないだろうか)。市川実日子とか塚本晋也とか高橋一生とか津田寛治とか、いかにも曲者っぽいいいキャラがせっかくにいるに、その曲者性はまったく生かされずに---ほんとに勿体ないと思うのだけど---ただ、長谷川博己が「プロジェクトX」的に突っ走っているだけになっている。立場にこだわる人たちのごたごたは上手く描けても、曲者たちのスタンド・アローン・コンプレックスは描けていない。そして、長谷川博己の鼻息ばかりが荒い。
(長谷川博己の演技そのものは、最後までブレがなく一貫していて立派だとは思うけど。)
核兵器を用いるアメリカからの介入があり、そのタイムリミットまでにチーム日本で一生懸命がんばって、ぎりぎり間に合わないところは政治を使い、そして最後はなんとかなって日本偉い、みたいな、こんな紋切り型の話を、庵野秀明がつくってしまうということに少なくない失望をもった。
(片桐はいりが出てきて、お茶を出してほっこり、みたいなシーンは、なんだこれはと思った。こんな場面を庵野秀明がつくるのか、と。)
この映画を観ながら、「ゴジラ」をつくるべきだったのは、押井守の弟子筋の人たちだったのではないかと思った。ゴジラという存在、そしてその物語は、多分に政治的な存在であり、そこから政治性を抜くことは不可能なので、だったらそこはきっちりやらないとダメなのだなあ、と。そこをきっちりやっておけば海外でもウケたのだと思う。逆に、日本ではウケなかったかもしれないけど。
日本国内向けの、内輪受け映画になってしまっていると思った。そして、それをつくったのが庵野秀明だという点で、けっこうショックでかい。