●大晦日NHKのBSでやっていた『龍の歯医者』というアニメの録画を観た。前篇と後篇とに別れていて、トータルで90分くらい。スタジオカラー製作、舞城王太郎榎戸洋司鶴巻和哉という名前が並ぶ。
前篇は、龍の歯医者というアイデアも面白く、久々に(「トップ2」や「フリクリ」を感じさせる)鶴巻的な造形感覚が全開になっているものが観られて、とても楽しく観ていたのだけど、後篇になって、基本的なヴィジョンが90年代後半からゼロ年代前半くらいのアニメから一歩も出ていないのだなあという感じを抱いてしまった(主題曲も小沢健二のカヴァーだし)。
タイトル通りに、龍の歯のメンテナンスをする職能集団の話。龍の歯の内部というのが死者の通り道であり、死者の魂の滞留地であるような、一種「黄泉の国」というような設定になっている。そして、龍の歯医者たちの集団は、一度その「龍の歯」のなかに入り込んで、自分の死の瞬間、その状況を見た上で、再び現世に戻ってくることが出来た者たちで構成されている。つまり彼らは、自分がいつ、どのような状態で死ぬのかをあらかじめ知った上で生きている人たちということになる。既に結末を知った上でその物語を生きている、という感じか。
自らの限定性と有限性を自覚し、受け入れている人たちの集団(野ノ子たち)がいて、しかしそのなかから、仲間を裏切ってまでも、自分自身の限定性(決定論的運命)に抗おうとする者が出てくる(柴菜)。そのような対立の物語が、そのどちらでもない、立場の不確定な第三者(ベル)があらわれるところから動きはじまる。ざっくり言えば、これが前篇のストーリーだろう。
物語の背景には、二国間の(というより、ほとんど内戦のようにみえる)戦争があり、その一方の国が龍と契約している。しかし、龍自身は戦闘に参加することはなく、龍と契約する国は、その神通力のようなものを自らの陣営の優位に使えるという感じになっている。まあ、一方の国には龍に対する強い信仰がある、と言い換えてもそんなに間違ってはいないと思う。龍の歯医者たちは、戦争とは直接かかわっていなくて、歯のメンテナンスを通じて、龍(という、制御が困難な巨大な力)の健康維持(制御)を行っているという感じ。龍とは実はテクノロジーの比喩だとか、原子力のことだとか、あるいは「カミカゼ」だとか、そのような「読み」はいくらでも可能だけど、ぼくはそこに興味はないし、作品自体にそのような読みを必然化するだけの深みがあるとも思えない。
(龍の国はなんとなく日本っぽいし、敵国は欧米っぽい。しかし、前半には巨大な戦艦同士の戦闘があったりするものの、後半になると兵士たちが馬に乗って戦っていたり、宮崎アニメに出でくるような古い型の飛行機が出てきたりして、戦争の具体的な様相はよく分からないし、時代もイメージもあやふやだ。)
後篇では、前篇で提示された、「自らの限定性を知った上でそれを受け入れて生きる者と、その決定論的運命に逆らおうとする者との対立」という「死」や「運命論」にかんする主題はそれ以上深く掘り下げられることはなくなってしまう。運命論に逆らう柴菜が実は敵国と内通していて、そのことによって「龍の力」が乗っ取られる危機が生じて、龍を守ろうとする側と、龍に攻め入ろうとする側との間で繰り広げられる攻防が主に描かれることになる。つまり、とても分かりやすいスペクタクルに収束する感じになる。
野ノ子とベルが、抜けた歯と共に龍の口内から地上に落ちて、地上から龍の歯の核のようなものを再び上空の龍に戻そうとする時、ベルが、自分は龍の歯医者にはなれないからと地上に残る宣言をして野ノ子と別れ別れになるところから、ベルが自分の「役割(生き返った意味)」として、龍の親不知をと自分の命を引き換えにするところまでの、(宮崎駿風の)冒険活劇的な展開は、それなりに立派に、面白くつくられているとは思うけど、そこだけが分かりやすい冒険活劇になっていて、前篇で示されたものとあまり関係がないというか、作品がはじめとは違う方向に向かってしまった感じがした。
そしてクライマックスには、世界全体を滅ぼしてしまいかねないような、破壊的な龍の力の爆発的発現があり、世界が崩壊してゆくイメージが壮大に示された後、登場人物たちの努力により、その爆発的な力の発現をなんとか抑えることが出来るのだけど、しかしもう既に(少なくとも目の前の)世界はあらかた崩壊してしまっており、爆発的破壊の後の、残骸のような、崩れゆく廃墟のイメージが示される。あー、エヴァっぽいよね、というか、ガイナックスだねえ、みたいな。
正直、また(まだ)「それ」なの、と思ってしまった。制御不能な巨大な力の発現・暴走→世界が大々的に破壊されていくヴション→巨大な力の収束した後に残される廃墟のむなしさ。しかし世界の廃墟は、行き止まりでもあり、振り出しでもある。エヴァでもゴジラでも龍でも、細部や辻褄の合わせ方やそこへもっていく筋道に多少の異なっていても、結局、行き着くところ(ヴィジョン)は「そこ」でしかないのだろうか、と。
(そしてそのようなヴィジョンが、思いの外「ぼくらが旅に出る理由」とぴったりくる。それでまた90年代的な匂いが増幅されてしまう。)
この物語には、限定性と運命を受け入れた上で生きようとする歯医者たち(野ノ子)と、運命論に抗おうとする柴菜、そして、運命を受け入れるのでもなく、抗うのでもなく、(そもそも「運命」というものを見失っている)自分自身が再び生まれた(生き返った)ことの「意味」を考え、その「役割」をみつけてそれをまっとうしようとするベルという、三つの立場が示されていると言えるのだけど、そのどれもがキャラとしても、物語としても、イメージとしても弱いと言うか、半端な感じなので、結局、何がやりたいのかよく分からないまま、得意技の破壊シーンの力技でまとめたという感じに見えてしまった。そもそも、この物語の「戦争」は設定もあやふやで、背景的状況でしかないのだから、三者の立場の違いの方をもっと詳細に展開していく方がよかったのではないかと思った。
(「トップ2」の主役であるノノは、限定性や運命に抗しようとするキャラだという意味で、『龍の歯医者』では主役の野ノ子よりも敵役の柴菜に近い。「運命(身の丈)に抗する」キャラが、肯定的な主役から、むしろ悪役に近い位置に移動したという点が、90〜ゼロ年代と、現在との大きな違いとは言えるかもしれない。肯定的に運命と限定性を受け入れようとする野ノ子たち「歯医者」は、どちらかというと「トップ2」では、ノノ以外のトップレスたち---ラルクのような---に近い。そして、運命や自身の欲望を見失っているベルは、あきらかに「エヴァ」におけるシンジ、あるいは「フリクリ」のナオ太と同類であろう。)