●一月一日ということなので、今までに見た映画のなかで最も好きな映画のうちの一本である(「最も好きな映画」は何本もあるのだが)『麦秋』(小津安二郎)のデジタル修復版を、huluで観た。デジタル修復版は、ところどころコントラストが強すぎるんじゃないかと感じるところもあったけど、DVDで観るよりもはるかに画面がクリアだしモノクロの階調も豊かで、映画館でフィルムで観るのと比べてもそれほど遜色ないのではないかと思った。音もだいぶクリアだ。
huluにお金を払ってさえいればいつでも観ることは可能なのだけど、『麦秋』という作品はあまりにすご過ぎるので(そして好き過ぎるので)、そうそう気軽には観られない。せわしなかったり、なんとなく流してしまったり、疲れていたりする日常の状態で受け止めきれるようなやわなしろものではない。「観よう」と思うにはそれを受け止めるための準備というか、それなりの高いハードルの覚悟が必要になってくる。だから、大好きな映画だけど、この三十年の間に十数回くらいしか観ていないと思う(小津の映画でも、ある部分だけ切り取って観たり、小分けにして観たりすることに抵抗のない作品もあるけど---そして、年齢とともに体力や集中力が落ちてくるし、「動画」の視聴環境そのものも大きく変化していて、映画を小分けにして観ることへの抵抗がどんどんなくなっていくのだけど---『麦秋』『宗方姉妹』『晩春』に関しては、その全部を「ひとまとまり」として受け止めなければいけないような感じを、今でも感じつづけている)。年の初めという節目の日はその覚悟を決めるためのきっかけとなってくれる。
若いときに強い衝撃を受けた作品や作家であっても、時代が流れたり、こちらも歳をとって、興味のあり様が変化したり、すれっからしになってきたりして、今観ると、そこまですごいとは感じられなくなってしまったというものはいくつもある(逆に、若い頃はピンとこなかったけど、歳をとるにしたがってだんだんその凄味がひしひしと迫ってくるというようなものもある、たとえば、マティスのすごさを分かるようになったのは三十近くになってからだし、成瀬のすごさをリアルに感じられるようになったのはせいぜいここ十年くらいのことだ)。だが、小津とセザンヌに関しては、若い時に感じた衝撃が、何度観ても、いつ観ても、その都度、その同じ強さと新鮮さでよみがえってくる、というか、新たに立ち上がる。この三十年間、改めて観て、事前の期待が裏切られたとか、拍子抜けだったとか感じたことは一度もない。
その小津のなかでもぼくにとって特別な作品が『麦秋』だ。誇張ではなく、この作品(やセザンヌ)に若い時に出会えたからこそ、五十歳すぎまで生きてこられたのだと思うし、逆に言えば、この作品の凄味のもつ磁場に、一生とらわれつづけてしまうというのが個としてのぼくの限界なのかもしれないとも思う。
この映画の最初にある、一家の朝食の場面のカット割りの、この宇宙的な広がりは何なのだろうか。十代の終わりにはじめて観た時は、このカット割りがどうなっているのか全然分からなかった。今ならば、この場面だけをみて、大して大きくない日本家屋の間取りをほぼ正確に描くことができると思う。しかし、見取り図として描けるようなレベルで空間がどうだという問題ではない。実際、切り返しで視線がかみ合わなかったりするので、空間の正確な表象ではない。このカメラ位置、この順番のモンタージュ、フレームへの人物のこの出入りの仕方、このリズムだからこそ、そこに生起する驚くべき空間がある(最初の朝食の場面は、この家族の関係性の描写であると同時に、作品の舞台となるこの家の「空間」の性質の描出でもある)。
そして、この最初の空間の立ち上がりの驚きの強さが、様々に形を変えながら、最後まで一度も途切れることなく持続する。今回もまた、そのすごさに改めて打ちひしがれた。