●『おやすみプンプン』(浅野いにお)四巻。ぼくには、これはちょっと駄目だった。三巻の終わりで感じた嫌な予感がぴったり当たってしまった感じ。多分、ぼくはこの人の露悪的なリアリズムが受け入れられない。露悪的な描写によって表現としての強さを出そうとすることが、理屈以前に受け入れ難い。露悪的なリアリズムっていうのは、実はリアルさの追求ではなくて、悪い意味での「文学」なんだと思う。田山花袋の「蒲団」以来、露悪的なリアリズムは「日本近代文学」の最悪にして最強の制度だろう(それは現在では、主にラノベやエンターテイメントの方に受け継がれて生き残っているように思われる)。三巻目までは、これにハマりそうでハマり切らないところがスリリングではあったのだが、四巻目ではどっぷりハマってしまっているように思う。
例えば、「エヴァンゲリオン」で、シンジやアスカの内面的な描写が泥沼にはまり込んだとしても、それと同時に、エヴァのファルムや動きそのものの質の高さがあり、シトの珍奇なデザインや攻撃パターンの面白さがあり、戦闘シーンのアニメーションとしての技術的な達成などがあって、常に表現の別の次元への通路が同時並列的に開けていた。『おやすみプンプン』でも、三巻目までは、プンプンとその家族の極度に単純化された描写が、鬱陶しい画面のなかにそれとは根本的に別の質をもった空白をつくりだしていたように思う。しかし四巻目では、彼らを描く描線が妙に太くなっていたり、重たい陰影がついていたり、立体感が出てたり、表情が過度に表現的になっていたりで、表現の重さ(密度)という意味では、他のリアルに描かれた人物や背景とかわらなくなってしまっていて、それは空白(落差、差異)として機能してなくて、全ての部分がみっしりと描かれることでフラットでかえって単調になり、鬱陶しくなってしまっているように思う(だんだん普通になってきて、空間のなかにとけ込んできちゃってる)。三巻目までにあった、いくつもの異なる表現形式の共存もあまり目立たなくなって、一つの鬱陶しさに全体が包み込まれてしまったようだ。物語のレベルでも、雄一のエピソードは嘘っぽい上に鬱陶しいし、バトミントン部の先輩のエピソードは薄っぺらな感じ。物語を劇的に展開しようとすることに引っ張られ過ぎて表現がベタッとフラットになってしまったように思う。多分、物語をひっぱってゆく方向を間違えたんじゃないかとも思う。雄一のエピソードを全部切って(雄一の方を描くのは、作家がもうちょっと歳とってからでいいのではないか)、先輩とのエピソードの間に関と清水や、他の同級生たちの活躍する隙間をもうちょっとつくれれば、随分展開が違ったんじゃないかという気もする(小松を急に、あんな極端なキャラクターにしてしまうというのも、どうかと思った)。まあ、それはぼくの好みの問題に過ぎないかもしれないけど。
あと、描き方が露悪的だと感じるのは、物語の次元でよりも絵の次元で、隅々まで気合い入れて描いてるのはすごい感じるのだが(特に女の子を描く時の気合いの入れ方はすごいと思うのだが)、時々、その気合いや丁寧さが、ちょっとどうかと思う意地悪な方向に突っ走っていて、例えば、雄一の昔の彼女のことを、あんな風に描かなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。それが、リアルさの追求であるより、どうしても悪意や関心の無さの発露に見えてしまう。この感じが、ぼくにはどうにも受け入れ難い。ただ、雄一の昔の彼女までを、ふくらみのあるキャラクターとしてきちんと構想し切れなかった、というだけのことかもしれないけど。(まあ、言うのは簡単だけど、マンガが、すべてを「見えるもの」として一人で絵で描かなくちゃいけないことがいかに難しいことなのか、とも思う。特に、大して思い入れのない、重要ではない人物を、どの程度、どのように描くのかということの判断はとても難しくて、しかもそれによって描かれる世界の基本的な立地のようなものが決まってしまいかねない。この作品では、子供たちに関しては、それがけっこう上手くいっていると思うのだが。)
この作品で面白いのは、物語の次元では、作家の女性への不信を強く感じるのだが、一方、絵を描くという次元では、すごい女の子大好きな感じで、丁寧に愛情をこめて描いている感じのギャップだ。出で来る主要な女性キャラの全てが、ほぼ同じタイプの顔つきなのに、ちゃんと違う人に見えるのも面白い。あと、今までも描かれていて、ぼくが気づいていなかっただけかもしれないけど、プンプンの部屋にハンガーに吊るされた学生服が描かれていて、おおーっ、ちゃんと学生服着てるんだ、と思った。
●百円ショップで、麺つゆとおろし生姜(だけ)を買った。税込み210円。『おやすみプンプン』四巻は、514円+税。