2025-10-22

⚫︎昔、十代で美大受験生だった頃、ぼくには絵画における「仮想敵」のような存在があって、代表的にはエゴン・シーレアンドリュー・ワイエスだった。モダニズムのハードコア(こんな言葉は知らなかったが)としての抽象表現主義にかぶれていた当時のぼくにとって、彼らの作品は、悪い意味での「文学性」に支えられた「通俗」そのものに見えた。

(彼らの作品が、技術的にもちょうど受験生にとって参照しやすいものであり、シーレもどきやワイエスもどきがたくさんいたということもある。ちょっと気の利いた受験生はシーレ風の自画像を一度は描く。ただし35年前のことで、今、どうなのかは知らない。)

今では、彼らの作品を昔ほど嫌っているわけではないが、それでも、シーレとワイエスの作品から「通俗」という語を連想することは変わらない。ただし「通俗」が必ずしも悪いわけではない、あるいは、彼らの「通俗」は決して「悪い通俗」ではない、と思うようにはなっている。もちろん敵とも思わない。

ただ、けっきょくみんなが好きなのは、シーレでありワイエスでありホッパーでありハンマースホイであり、といった「通俗」であって、セザンヌマティスのような「前衛」ではないんだな、という、うっすらとした絶望というか、悲しみのような感情がぼくにはある。

(ホッパーもハンマースホイは「趣味」としてとても好きだ。)

(このように書くと、美術や芸術に詳しい人には、キッチュアバンギャルド、あるいは偽物(アカデミズム絵画)と本物(モダニズム絵画)みたいなことを言いたいと取られてしまうかもしれないが、そういうことではない。いや、かつてはそう考えていたかもしれないが、今はそうではない。みんな、「親しい(懐かしい)もの」と「新奇な(ヤバい)もの」があったら、「親しいもの」の方が好きだよね、というか、「常識人」と「変人」がいたら、「常識人」の方が、「すんなり共感できるもの」と「ごちゃごちゃとややこしいもの」があったら「共感できるもの」の方が、「エモ」と「クール」だったら、「エモ」の方が好きだよね、というくらいの感じのこと。いや、こんな単純な二項対立ではないのだが…。)

(シーレ、ワイエス、ホッパー、ハンマースホイなどの「まともさ」に対して、セザンヌマティスは根本的なOSのようなものが壊れていて、基底が壊れているところから積み上げて作っている感じがある。ここでいう「まともさ」とは社会的なものであり、社会的なまともさが壊れてしまっているから、宇宙な根本から始めなくてはならない、みたいな感じ。ぼくがイメージする「前衛」は、社会的な基底からではなく、宇宙的な基底から始めようとする人たちのこと。スピってるだろうか。)

(「約定(convention)」ではなく「法則(physical law)」から始める、というのか。だから「ハイアート / ロウアート」あるいは「モダニズム絵画 / アカデミズム絵画」とかいう「約定」の問題ではない。)

(芸術は基本として「趣味(taste)」あるいは「感覚(sense)」の問題だと思うが、「約定」から形作られると「趣味」と、「法則」から形作られる「趣味」があるのではないか。今思いついたことだが。)

⚫︎(「通俗」という言い方が悪いのかもしれない。「常識的な三次元的空間表象の秩序からはみ出ない」と言うべきなのか。たとえば、クリムトの過剰な装飾平面はしばしば三次元の秩序からはみ出すが、シーレの歪んだ形態や濁った色彩はギリギリで三次元の秩序に収まっている(だから受験生も安心して真似できる、対して、受験生はセザンヌマティスの真似をしてはいけない、真似すると大学に入れない、まあこれも35年前の話だが)。ワイエスハンマースホイも基本としての三次元空間の秩序に疑いを向けない。その意味では、ポッパーは時々空間が歪んで常識的時空からはみ出すことがある。ヴェンダース的ホッパーがリンチ的ホッパーになることがある。)

(これは生き方の問題とは違う。社会不適合者のように生きた人でも、絵を描くと表象秩序としては「まとも」な絵を描いたりする。尾崎豊の曲が教科書通りに作られている、みたいなこと。)

(とはいえ、「遠近法」が「約定(convention)」なのか「法則(physical law)」なのかという問題には、なかなかややこしいものがあるが。)

(丁寧に、厳密に見ていけば、絵画は二次元で、そこに三次元を表象しようとすると必ず無理が出て、どんな画家でもその「無理」の現れ方、あるいは処理の仕方によって常識的な空間秩序からいくらかははみ出しているもので、そこが絵画の面白みであり、その意味で「どんな絵画」でも平面に描かれる限り常に面白いところはあって、そのような「面白み」はもちろん彼らにも十分に、十分以上にあるのだけど(ホッパーもハンマースホイも、ぼくは好きなわけだし)、当然すぎるほど当然のことだが、ただ三次元空間を表象しているのではない強い独特の作家性があるわけだけど、でも、そこはここではあえて雑に捉えていて、最終的な落とし所として(というか、基本的に出発点として、だが)どっちに傾いているかということを問題にしている。)

(いやいや、まとまらず、なんのこっちゃ、という感じだが。)

⚫︎空間の秩序を疑わなければならないという決まりはないし(疑うのが偉いという評価基準が前もってあるわけでははないし)、もちろん社会的に「まとも」であってはいけないという決まりもない。「通俗」であるからという理由で批判されるいわれもない。ただ、そこからどうしてもはみ出してしまう、はみ出さないないと気が済まないという「性癖」のようなものがあり、かつて「モダンアート」はそのような志向性を共有の価値としていたが(これはぼくの解釈で教科書に載っているような共通見解ではない)、それはもう終わってしまったのかなあという寂しい気持ち。