2024/04/13

⚫︎RYOZAN PARK 巣鴨で、連続講座 第3回 「マイケル・フリードとグレアム・ハーマン―芸術作品はどのようにして、この世界にあることができるのか」。今回は特別会として大岩雄典さんにゲストとして来ていただいた。

現場でも言ったことだが、この件について(フリードとハーマンについて)の講演を大岩さんにお願いできて本当に良かったと思った。30年来のモヤモヤが色々腑に落ちたのと同時に、新たな刺激を多く受けた。詳細についてはアーカイブ動画もあるので、そちらを観てください。

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一つ、余談のような話。一般に、フォーマリズムの批評では、ダリやマグリットなどのシュルレアリスムの絵画は、いわゆる伝統的な三次元空間の表象に留まっているということで、アカデミズムの絵画として、評価は低めになっている。モダニズムの作品においては、表象されるもの(主題)と、それを表象するメディウムとの間に緊張関係がなければならないとされるのだが(いわゆる「メディウム自己批判」のようなものが必要とされるのだが)、それに対して、作品がメディウムのありように対して無自覚というか、メディウムの存在(メディウムの抵抗)をなるべく見えないようにする傾向の作品を、グリーンバーグはアカデミズムの作品と名付けて批判的に取り扱った。要するに、シュルレアリスムの絵画は「絵画空間」としてはとても普通で、新しさは何もない、と。

それに対してハーマンは『芸術と対象』で、ダリやマグリットなどの作品の「普通の空間に異様なオブジェクト」というあり方が、OOOにおける「通常の道具的連関の中に突如現れる壊れたオブジェクト」というあり方に似ているとして、高く評価する。デュシャンよりもダリの方が偉い、みたいな感じになっている(フォーマリズムの批評ではデュシャンの評価も低いが…)。そして大岩さんもまた、ハーマンの主張を受けつつ、シュルレアリスムの絵画(マグリットデ・キリコ)の「普通の空間に異様なオブジェクト」という感覚が、ゲームのUIや、現在のインスタレーションの作品などとの親和性が高いとして、好感触な感じとして語っていた。

その話を、なるほどなあと聞きながら、ぼくとしてはどうしても「空間」それ自身というか、「時空」それ自身を歪ませたいと思ってしまうんだよなあと思っていた。「普通の空間に異様なオブジェクト」ではなくて「歪んだ時空に普通のオブジェクト」という方向を指向してしまう。時空そのもののあり方を変えたいと思ってしまう。もしかするとこれこそが、ぼくに刻まれた「モダニズムの刻印」なのかもなあと思った。