●『アナと雪の女王』をブルーレイで観た。これはたいへん面白かった。最初の方から既に目がうるうるしていて、戴冠式の場面でもう泣いている感じ。後半は前半に比べればややテンションが落ちたけど。
ぼくは姉妹の話が好きなのだな、と改めて思った。これを観て思い出していたのは、突飛なようだけど高橋洋の『恐怖』とその原型ともいえる楳図かずおの『おろち』(「姉妹」)だった。ぼくには、「アナ雪」と「おろち」(「姉妹」)は同じ話の裏表のように感じられる。要するに、ここでは男性は問題ではなく、いてもいなくても大した違いはない。あと、姉が扉を閉ざす場面で、青木淳悟の「ふるさと以外のことを知らない」の兄弟を思ったりした。この映画のもっともすぐれている点は、この姉妹の関係を冒頭の短い時間で、的確に簡潔に、しかも面白く描けているところにあると思う。ぼくにはそこが最も「泣ける」。
●ここまで3DCGの技術が進化すると、人物をどの程度、どうやってデフォルメするのか、ということがとても難しくなってくるように思った。下手にデフォルメすると不気味の谷に入ってしまう。かといって、あまりにリアル方向へとふり過ぎると、アニメである意味がなくなってしまう。
例えばマネの絵画の新しさは人物を平面的に捉えるやり方にあり、それは二次元と三次元とのハイブリッド空間をつくりだす。この時、平面的であると同時に立体的でもある人物のイメージを立ち上げるのは、形態のモデリングや物の質感、細部などの細密な描写といった「三次元的な再現性」とは別の次元にあって、しかし、平板なベタ塗りのトランプ模様とは異なる形で「リアルな厚み」をたちあげる、「筆触」の機能であると言える。形を描くのではなく、筆触によってイメージをたちあげること。筆触は、描写される(表象される)対象の側にもあり、描写するものとしての絵の具や筆の側にもあり、三次元の側にもあり、二次元の側にもあって、両者を繫ぐ役割をする。
いわゆる「アニメ」の世界(空間)も、二次元的表象と三次元的表象とのハイブリッドのなかで形作られる。人物表現におけるある種のデフォルメ(例えば骨格を無視した異様な目の大きさ)は、そのようなハイブリッド空間だからこそ成り立つ。しかし、3DCGは完全に三次元的な表象であり、例えば、周囲の空間が立体的なのに、顔だけが平面として処理されるというようなハイブリッドは成立しない(しかし、日本の「アニメ」はここでもハイブリッドを実現しようとして、ものすごい表現を日々生み出していると思う)。顔は、同じデータを3Dプリンターにつなげばそのまま三次元でフィギュアとして再現できるような形で表象されなければならなくなる。
その時、デフォルメという記号化の作用と、立体的なモデリングや質感といったリアルな再現性の作用との「折り合い」をつけるのはかなり困難になってくると思う。ここで、質感の再現性をどの程度にするのかというのは結構重要で、例えばぬいぐるみであれば、質感をリアルにしたとしても、現実空間のなかにあるぬいぐるみ(あるいはこの映画では「雪だるま」)が既に記号化(抽象化)された存在であるから、それがいきなり喋り出したとしてもあまり違和感がないけど、明確にリアルな人間の肌のような質感を持った「顔」が、リアルな骨格を無視した形であらわれる時、人はそれを「人の顔」として受け入れることが出来るのだろうか(奇形に見えてしまわないか)。しかし、顔がゴムのような質感であれば、それはそれで「人ではない」不気味な感じになってしまう。
この辺りの感じ方は人それぞれだろうし、こうすれば違和感がなくなるという法則があるわけでもないだろう。具体的に作ってみて、それが「どう感じられるか」を試して、修正したり微調整したりするという作業が必要だろう。この点に関して「アナ雪」はかなり上手く精密にやっていると思った(特に女性キャラについて)。
アナの演技が特にそうなのだけど、アメリカンモードで紋切り型の「豊かな感情表現」が過剰にこれでもかと盛り込まれていて(舞台ミュージカル的な演技、というか)、もし実写で人物がこの演技をしていたらぼくには受け入れるのが難しかったと思うのだけど、まさにこの(分析的に切り取られ、記号化された上で、再び組み立て直されたような)「紋切り型表現の過剰さ」が、アナという(本来は不自然な)3DCGキャラを自然で生き生きしたものとして成り立たせているように感じられた。不自然×不自然=自然、みたいな感じ。
●「アナ雪」のお姫様は、いわゆるお姫様的な顔立ちではなくて、顔のつくりなどもイメージの類型としては典型的な庶民顔というか、下町娘的な造形になっている(東洋人に近い感じ、ともいえる)。それは、活動的な妹だけではなく、ひきこもる孤独な姉も同じで(二人の顔はそっくりで、性格の違いは「色」によってあらわされている)、このあたりが「美少女」や、少女という形象の「聖性」が前提としてある日本のアニメと大きく異なる。とはいえ、ここの部分はぼくでも充分納得できるというか、アナというキャラクターの表現力によってこの作品が支えられているのはよく分かる。
分からないのは男性キャラで、(これは文化的コードに違いに過ぎないのかもしれないけど)この作品では男は重要ではなく添え物にすぎないとしても、クリストフなどは役割的にはアシタカなのに、このぼさっとした冴えない感じは何なのだろうか、とか感じてしまう。朴訥と言えば朴訥な感じではあるけど、鼻が大きくて顔が長く顎も長い感じで、これが欧米的なコードとしては山男=ワイルドというイメージの典型なのだろうか(まあ、日本的な文化コードが、しゅっとした少年少女を好き過ぎるということもあるのだけど)。
それと面白いのは、ヒーローであるこのキャラの「体臭」が何故かやたらと強調されているところ(確か、三回くらい彼の体臭が指摘されていた)。確かにそれがリアリズムなのかもしれないけど、いわば子供向けのアニメであるこの作品で、そこにリアリズムが必要なのだろうか、とか思ってしまう。ここで体臭は隠されたセックスアピールで、それが(もう一方の男性で、悪者であるお坊ちゃん王子ハンスと対比される)ワイルドさ→自然性という風にイメージが連鎖してゆくようなコードが、欧米的にはあるということなのかもしれない。
(追記。考えてみればクリストフがアシタカというのは間違いで、むしろアナこそがアシタカで、クリストフはサンの方に近い。あるいは、クリストフへの違和感とは、「未来少年コナン」で、コナンのいるべきヒーローの位置になぜかジムシィがいる、みたいな感じだろうか。宮崎駿がサンやコナンとして表象するものを「アナ雪」ではクリストフが担う。おそらくここらへんに、「自然」というものに対する欧米的コードとのイメージの違いがあらわれているのだと思う。)