●『おやすみプンプン』(浅野いにお)(1)〜(3)。ぼくは浅野いにおって絵柄もお話もかなり苦手で、この作品も噂には聞いていたし、複数の人からすすめられてもいたのだけど今までどうしても手がでなくて、でも今日、本屋に行ったら三冊並んであるのが目に入って、それが「読め」って主張しているかのように見えたので、買って、本屋の二階にある喫茶店で読んだ。最初の一話分を読んで、なんかすごく悲惨な話になりそうな感じで、うわー、嫌だなあ、と思って、読み始めたことを後悔したのだけど、読み進んでゆくとそれほどでもなく、というか普通に「いい話」になっていって(もし、2巻の途中で母親が自殺していたら、そこで読むのをやめたと思う)、普通に面白いなあと思ったのだった。ごく普通にリアリズムの男の子の成長の話で、ぼくにとってのこの作品の面白さの中心は「愛子ちゃんがすっごくリアルだ」ということに尽きているのだが。細部の、意地の悪い露悪的な感じというのか、人間に対する根本的な「不信」を感じさせる感触と、しかしそれが、お話としては結局「いい話」として収束してゆくこととが(いまにも崩れそうな)絶妙なバランスで釣り合っていて、その危ういバランスが面白いのだとも思った。
ただ、絵柄としてはどうしても好きにはなれなくて、リアリズムが露悪的になると、こういう絵柄になるっていう風に感じてしまう。そのような意味で、主人公の一家があのような絵柄で書かれていることの意味はとても大きくて、もし、主人公の一家が他の人物と同等に、普通の密度で描かれていたら、ぼくはこの作品を受け入れることは出来なかったと思う。その部分がぽかっと空っぽに抜けている(飛んでいる)からこそ、この、(お話としてだけではなく、絵的にも)とても生々しくも鬱陶しい作品世界を受け入れられるのではないか。いや、本当に主人公の「顔」はあれしかなかったのだという必然性はすごく感じる。この作家は、子供はともかく、大人の顔が(キャラクターとして)描けないという印象で(意図的に露悪的に描いているのかもしれないが、ぼくには受け入れがたい)、だから、主人公というよりもむしろ、その父や母や叔父が、あのような絵柄であることの意味の方が大きいのかもしれない(あの叔父さんとか、リアルに描かれたらたまったもんじゃないと思う、多分直視できない、同族嫌悪だけど)。あるいは、主人公がほぼ空白に近いかたちで描かれていることによって、マンガとしては例外的に一人称が成立しているのかもしれないとも思った。普段、ことさら自分の外見を意識していない時の自己イメージって、けっこうあんな程度のものかもしれないので(それに、家族の顔とか、普段あまりしげしげ見たりしないし)。
主人公だけでなく、シミちゃんという男の子の頭のなかも、異質な絵柄によって表現されるのも面白い。だかそこには違いがあり、主人公は、自己イメージよりも妄想世界や神様の方がリアルなのだが、シミちゃんは、自分自身のイメージはしっかりしてるけど、妄想や神様はつたない描線の絵柄だったりする。このような表現は、基本的に全てが同等に、フラットに見えてしまうマンガ(画像)の中に、見通しの悪さというか、落差を生み、それによって、登場人物たちが、お互いがお互いに対して不透明な存在であるという感触を生み出しているように思われる。このことは、それを読んでいる読者さえも、すべてが見通せる位置にいるわけではないという不透明感を感じさせることにもなるだろう。妄想世界や神様は、読者と主人公/読者とシミちゃんにしか見えていないのだが、では、主人公のイメージは、読者にだけ、あのように見えているのか、それとも、主人公自身にとっても、あのような自己イメージであるのだろうか、もしかしたら、客観的にもあんななのだという可能性だってないとは言えない、とか。あるいは、このマンガでは表現されていないけど、それぞれの登場人物たちが、その数だけ、異なった絵柄の(それによって表現されるような、異質な)妄想と自己イメージと現実との関係をそれぞれ孤独にもっているはずだという気配をも生じさせるだろう。(それぞれの妄想は閉ざされたものだが、しかし、主人公の神様は叔父さんから来ているし、その叔父さんに呪文を教えたのは女子高生だったりする、という意味で、それは現実的な関係の影響下-支配下にある。)
●ただ、三巻の最後に出て来る叔父さんの五年前の話は、そこだけ嘘っぽいというか、ちょっとつくり過ぎなんじゃないかという感じがした。今後、どう展開するのか、ちょっと危うい感じもした。その危うさが面白いのかもしれないのだが。