●引用、メモ。『ラカン精神分析入門』(ブルース・フィンク)より。多分、フレームを前提としない、というのは、このようなことだ。可変時間セッションについて。
《「区切り」は患者がセッションを空虚な話で一杯にしてしまうのを阻止するための道具である。患者が一番重要なことを言ったら、セッションを続ける必要はない。実際、分析家がそこで「区切り」をつけないと、つまりそのセッションを終わりにしないと、患者は精神分析の「時間」の終わりまで話を詰め込み、それ以前に自分が言った重要なことを忘れてしまうことになる。分析主体のとくに重要な言葉にもとづいてセッションを切るのは、本質的なものに注意を向け続けるための方法なのである。》
《表面的な話、つまり日常生活のたわいもない話が体系的に取り除かれ、重要な点が強調されるという、そもそもそのことによって、ラカンが「可変時間セッション」と呼んだものを採用することは充分に正当化される。しかし、ラカンが患者とのセッションの長さを変化させ始めたとき、心理学や精神分析の体制側の人びとの多くは呆れて、その実践を「短時間セッション」と軽蔑的に言ったのである。それによって、セッションの長さの可変性という重要な要素は覆い隠されてしまった。》
《無意識の現れは、しばしば驚きを伴う。その驚きとは口がすべってしまった驚きであり、たとえば分析主体が、「not」という言葉をつけ加えたり、文章のなかの「あなた」を「私」に、「彼」を「彼女」へと変えたりして、自分の言おうと下こととまったく逆のことを言ってしまうときがこれにあたる。また、自分のしたことに驚く場合もある。後者の例としては、私がスーパーヴィジョンしている治療者が教えてくれたものがある。その治療者のある患者は長年意識のうえでは継母を嫌っていた。しかし、父親の死の直後、路上で継母にばったりと出会ったときに突然、実は彼女に対して自分が大変な好意と優しさをもって接しているということに気がつき愕然としたのだった。彼は何年ものあいだ、自分が父親に対してもっていた怒りを継母に転移させていたことに気づかなかったのだが、予想だにしなかった自分の反応を通じて、以前には気づかなかった自分の感情や思考をかいま見ることができたのである。》
《唐突にセッションを切り上げることによって、分析家は直前に分析主体があらわにした驚きを強調する。つまり区切りによって驚きという要素を導入し、分析主体に、自分には聞こえてこなかった何を分析家は聞いたのだろうと思わせ、またどんな無意識の思考がそこに現れたのかと分析主体を不思議がらせるのである。こうした驚きの要素は、分析をお定まりの日課のようなものにしてしまわないために重要である。》
《時間が固定したセッションが基準である場合、分析主体は話す時間が決まっていることに慣れてしまい、その時間をどう埋めようか、それをどう使うのが一番よいかを考えるようになる。たとえば分析主体は、自分が昨晩見た分析家についての夢が分析にとって最も重要であることに非常によく気づいている。しかし、彼らは夢の話にたどり着く前に(もしたどり着いたとしての話だが)、自分が話しておきたいと思うその他たくさんのことで時間の帳尻を合わせようとする。分析主体がセッションで割り当てられた時間を使う際の仕方は、彼らのより大がかりな神経症的戦略(回避や、他者の無効化などを含む)にとって重要な部分である。前もってセッションの長さを定めておくことは、単に彼らの神経症を助長するに過ぎない。》
●作家は、制作の時間中常に、自分の内部で自動的に作動する巧妙な神経症的戦略の存在に自覚的である必要があり、その戦略をどうはぐらかし、どうやって自分を出し抜くかを考えていなければならないだろう。自分自身を硬く守る神経症的戦略の裏をかき、どのようにして無意識に語らせるのか、自分の口をすべらせるのか。そのための技法は多々あるだろう。そして、つい口がすべってしまった瞬間に敏感に反応し、そこで一旦、行為は中断され、自分が、「つい」してしまった事について、吟味するというのか、その感触をしばらく頭に留め置く必要があるだろう。「つい」してしまった行為を回収せず、やりっぱなしで放置しておくことの重要性(しかしそれは、律儀で気の小さい神経症的主体にとっては大きな負担であり、恐怖であるのだが)。