●ここ最近、福永信中原昌也の小説を少しずつ読み直していて、それで改めて思うのは、阿部和重ってやっぱすごく偉大なのだなあ、ということなのだった。勿論、福永信ははじめから福永信だし、中原昌也ははじめから中原昌也なのだが、この二人の小説は、おそらく阿部和重が開いた地平がなければあり得なかったように思われるのだ(初期の作品ではいろいろなところに阿部和重的な匂いがするし)。
主人公、あるいは語り手が、よく分からないが何故か緊急事態に追い込まれているという思い込みをもち、強迫的な切迫感に囚われていて、せき立てられるように行動する(あるいはほとんど行動はしないままで思考を沸騰させ、空回りさせる)。状況はよく見えず、視野が狭いので疑心暗鬼がつのり、行動は唐突で突飛なものとなり、突飛な行動は頓挫し、思い込みは裏切られ、裏切られることでさらに防衛的に重層化し、妄想的に増殖してゆく。そのことで時間と空間も重層化され、主体の分裂をも強いられる。状況が不穏なものであるから切迫感をもつのではなく、存在論的に切迫した者だからこそ、切迫感に捕われ、状況を切迫化させている。切迫しているのは登場人物の頭のなかであり、状況は実は意外にのんびりしたものであるのかもしれないのだ。阿部和重の小説では、存在論的な切迫感によって小説が起動し、密度とリアリティが生まれる。状況の条理性、不条理性、あるいは内容のもっともらしさやバカバカしさは、リアリティとはほとんど関係ないようにみえる。このような(状況-内容よりも先にあるかのような)切迫性によって小説が動いてゆく感触は、阿部和重以前の日本の小説にはあまりみられないもののように思われる。あえていえば、小島信夫後藤明生くらいだろうか。(しかし後藤明生の切迫性は多分に方法的に選択された、フォーマリスティックなものであり、『笑い地獄』や『関係』など゛においても、切迫性そのものが小説を起動させているという感じではないと思う。)
阿部和重の切迫性と、福永信中原昌也のそれとはまったく異なる質のものだろう。阿部和重の切迫性が、しばしばパラノイア的な妄想に発展する(よってきわめて構築的である)のに対し、福永信の切迫性はもっと微弱で微妙なものに留まり、固着的妄想へは発展せず、しかしそこには、煙のような薄さで常に性的な気配と権力関係の匂いが漂っている。中原昌也の切迫感は、唐突で因果関係を欠き、反復的ではあっても持続性や発展性がなく、しかし常に非常に具体的な手触り感をもつ。この、切迫性のたちあがる質の違いが、それぞれの作家の作品のもつ独自の感触の違いと直接つながっているように思われる。だが、設定や状況が先にあるのではなく、ある切迫性の手触りが先にあり、それによってリアリティに突き当たり、それがそのまま作品と成り得るのだという感触は、日本の小説ではおそらく阿部和重からはじまっているように思う(妄想がパラノイア的に発展するにしても、阿部和重の小説においては、妄想-構築そのものが重要なのではなく、そこへと必然的に導かれてしまうような切迫的な力こそが、作品を起動させると同時に、作品全体を支え、貫いているように思われる)。つまり福永信中原昌也が「書きはじめる」ためには阿部和重の小説が既にあることが必要だったといえるんじゃないだろうか、と思われたのだった。
例えば福永信の小説は、一見フォーマリスティックであり、徹底的に「形式的な意識(意識的な形式)」によって制御されているようにみえる。福永信の小説を読むことは、福永信によって仕掛けられた仕掛けを解くことであるかのようにさえみえる。しかし、ある種の切迫性の手触りがそこにはあり、それを読んでゆこうとすると、必ずしもそうとばかりは言えないということになるのではないかと感じられる。