2020-10-14

●濱道拓「追いつかれた者たち」(新潮)。これはすごい。圧倒された。妙な表現になるが、「阿部和重以降にはじめて可能になる中上健次」という感じ。あるいは、ドストエフスキー原作の『牯嶺街少年殺人事件』というか。

過去に、地方の(郊外の)不良少年たちが起こした、新聞に三面記事として載るような(卑小な、と言える)事件が、二十数年後に、複数の(それぞれに欠落を含んだ)視点をつなぎ合わせて、語り直されることで、とても大きな構えをもつものになる。

それはかなり特異な形となる。作品の出発点と着地点とで視点が大きくズレているというか、事件の結末をつける役割が、後から、副次的に事件に巻き込まれた人たちによって担われ、いわば、木に竹を接ぐような構築がなされている。それは、この作品が、ストレートな物語ではなく、「構成されたもの」としての小説というか、複眼的な「構成と配置」によって初めて成り立つこと(そういうやり方でないとできないこと)をやろうとしている小説だということだろう。

木に竹を接ぐような複雑な構成で、三回読んだのだが、読む度に納得が深くなっていくというか、この小説がいかに精密に書かれているのかということを思い知らされる。文章も、一見硬いように感じるのだけど、読み込んでいくと、実は、常に新鮮さを保っていて、とても柔軟であることが分かってくる。

この小説の重要な登場人物である、田宮、里谷、三島は、誰もが、ある種の絶対的に受動的な状態に置かれた人物たちであり、受動的な人物が能動的に行為する者へと転換する時に、なにが起こるのかという三つの例でもある。ここで能動性とは、主体的な選択というよりも、ぎりぎりにまで追いつめられた末に、もうそうするしかないという形で立ち上がる、強いられた(最後にそれだけ残された、なけなしの)能動性とでも言うべきものだろう。能動性など発揮しようもない状況の絶対性のなかで、何らかの行為を起こそうとする時にこそ(その時にだけ)、その人物の固有性がたちあがる。そこはもはや倫理を越えた(越えてしまった)領域である。

そしてその固有性とは、人物に資質のように備わっているものというより、状況や関係によって生まれるものであるように感じられる。

ほとんど唯一の女性の登場人物(名前がない)は、途中まではほぼ対象(モノ)として扱われ、存在するのに存在しないかのように黙殺されている(暗がりに沈んでいる)のだが、最後に強い能動性を発揮する。とはいえ、この女性は何も語らないまま消えてしまう。この女性は、おそらくこの作家の他の作品で何かを語るのだろうと思われる。

とにかく密度が濃く、また複雑性も圧力もあり、220枚くらいの小説なのだけど、もっと長い小説を読んだような、充実感とともに疲労感もある。