町田康『屈辱ポンチ』

町田康屈辱ポンチ』。いままであまり町田康を読んだことはなかったし、『告白』は途中まで読んでやめてしまったのだけど、この本は(特に「けものがれ、俺らの猿と」は)凄く面白い。今にもヨレヨレになってしまいそうなのに、決してヨレヨレになることなく、最後まで新鮮さが失われることなくつづくスリリングな即興演奏みたいだ。先の展開がまったく読めず、パターンがみえてきそうな予感が漂いはじめると、とたんに予想外の方向へと動きだす。テンションが上がることも下がることもなく、最初から一定の安定したリズムですすみつつも、しかしそれが決して単調に感じられることがない。いつ飽きるのか、いつダレるのか、と思いながら(つまり、こんな話は遠からず行き詰まってしまうに違いないと思いつつ)、一行一行読み進めているうちに、鮮度が損なわれる事なく最後までたどり着いてしまうのだった。途中の展開を、読み終わった後に頭の中で思い返して反芻してみると、そんな無理でデタラメな展開に説得力があるとは思えないのだが、実際に読んでいる時は、一つ一つの突飛な展開を他にはあり得ない必然的なものであるように感じている。つまり、実際にそう書かれている言葉を追う以外に、要約も単純化もできない、それ自体として過不足のない、それそのもの全体としてだけ意味を持ちうる言葉の連なりなのだ。パターンにも、形式にも、外側から与えられる意味にも把捉されることなく、その動きのみで、最後まで自身を支えることに成功している。そのような「ただ読むしかない文の連なり」によって、これだけの長さを支えてしまうのは凄い事だと思う。(おそらく、ごく短い作品の中原昌也や、「読み終えて」の福永信はこれと近いことをやろうとしているように思えるが、中原昌也は長くなると単調になってしまうし、福永信は作を重ねるにつけて技巧的な枝葉末節に入り込んでしまっているように思われる。『アクロバット前夜』は発表順にだんだんつまらなくなってゆく。)おそらく、先の展開や結末を前もって考えず、最初の設定だけで書き始め、その都度即興的に筆をすすめてゆき、その即興の冴えとテンションが(動きと、硬直にハマり込まないためのその一手先を読む冴えとが)、一瞬も緩むことなく持続し、最後の一行までたどりつくのでなければ、こういう作品にはならないのだろうと思う。それは、すべてが完璧に整っているというのとは全く逆のことで、いまにもヨレヨレになって倒れてしまいそうなのにもかかわらず、倒れる寸前でひょいっと踏みとどまり、ヨロヨロと危なっかしい足取りのままでありながら、決して細い道を踏み外すことなく、進みつづける、ということなのだろう。作家が、作家自身に忠実でありつつも、作家自身の予測を常に裏切りつづける、というようにして書き綴られてゆくのだろうと感じられる。この小説の主人公は、幅をもった世界の広がりを奪われていて、線的に進行する時間の流れに捕われ、次々と現れる予想外の出来事に(その視野の狭さによって)余裕なく追い込まれるしかないのだが、この幅のない視野の狭い主人公こそが、小説というメディウムと世界の生々しさを結びつけているように思う。