吉田健一『瓦礫の中』

●必要があって、吉田健一『瓦礫の中』を久しぶりに読み返してみたら、思っていたよりずっと面白かった。この小説はは、戦後の焼け野原になった東京で、家がないので防空壕で暮らす人たちの話から始まるのだが、そんな特異な状況であっても、彼らは、吉田健一の他の小説の登場人物と何もからわずに、何か旨そうなもの見つけ出してはそれを食い、酒を飲み、高邁ではあってもあくまでお気楽な話をしたりして過ごしている。(旨そうなものを探すというより、まずいものも「まずいもの」として、そのようなものとしてしっかりと認識しつつ、食っているのだが。)吉田健一の書く文章の魅力の多くが、その分厚い教養に裏打ちされることで可能になるある種の余裕にあり、高踏的な享楽趣味にあることは確かだろう。『東京の昔』で語られるような「昔」の多くが消失してしまった東京の焼け野原を前にし、生活が大きく変化したにも関わらず、登場人物たちが揺らぐ事なくすみやかに状況を受け入れているようにみえるのは、実生活の大きな変化の裏側にある、分厚い教養によって支えられた連続性が働いているからだろう。しかし、何も教養など持ち出さなくても、『東京の昔』で描かれる「昔」であろうと、空襲によってその多くが失われた終戦直後の焼け野原だろうと、復興によって「昔」とは全く別の東京になった後であろうと、彼らは同じように、食い、飲み、話しているからこそ、そのような行為の反復による連続性によって同じような人物として安定しているのだというべきだろうか。そしてそれを語る文章のリズムも揺るぎなく一定である。しかしその安定は、不安定なものに捉えられているからこそ、必死で要請されたもののように思える。以下、メモとして引用する。既に大きな屋敷を建てている伝右衛門さんと、いまだ防空壕で暮らす寅三が、伝右衛門さんの屋敷で一緒にウイスキーを飲んでいる場面で、それぞれ思うこと。
《考えて見れば、寅三が家が欲しいと思うのもただそこにいて家などということに頭を使わずにいたいからだった。勿論今いる防空壕も家だったが、そういう所では気を付けないと電燈で額を打ったり一跨ぎで家の端から端まで行ったりして自分がどこにいるかいやでも解らされてその注意の無駄がひどかった。それならばこうして伝右衛門さんと飲んでいるのは家にいることで防空壕に戻ってちゃぶ台に肘を付き、まり子の顔をどこか他所でも見たことがあるような気がしながらまり子と話しているのも家にいるのだった。そうすると寅三が家が欲しいというのはそうして自分がいる所に自分がいるのだという感じを長続きさせるのを望んでのことで、もし便所に入って水洗の取っ手を押して水が流れ出せばこれはそれ以上にその問題に就て考える必要はないということであり、寝部屋があってそこで朝目を覚ますのは早く起きないとまり子の邪魔になる心配がないことだった。それだけのことで寅三はそれだからこそ家が欲しいので、今は併し家にいた。》
《伝右衛門さんは寅三と飲んでいるのが誰となのか解らない状態になっていた。その部屋に日光が半分ばかり差し込んでいて陰を作り、飾り棚の置きものも淡い陰を落としていた。そうすると伝右衛門さんはその部屋が日光で満ちている所が想像出来て、もうその部屋にいないことになっているのでもよかった。或は自分がいる空間は思うままにどういう場所にもなり、そこは木の葉洩れに射して来る光を水が反射する河でもあり、音楽が続き過ぎて派手な沈黙に似て来た舞踏場の隅でも、いつ終わるのか見当も付かない相談が行われているどこかの会議室でも、儀仗兵が不動の姿勢で所どころに立っているので却って人間らしい感じがする宮殿の階段でも、或は誰といたのかはもう思い出せない薄暗い茶室でもあった。併し確かなことはそこがどこになってもそこを自分が見ていて自分の廻りにそこがあることで、そのどれもが曾て自分がここにいると思った場所だった。》
あるいは、小説の冒頭近く、まだ登場したばかりの寅三が、自分の住居でもある防空壕の入り口の蓋に腰をかけて、焼け野原を眺めながら思うこと。
《併しそれで我々はこれから何をなすべきかという風なことを寅三が考えずにすんだのはやはり年の功と言わなければならない。我々は何をなすべきかであるよりも我々が余り生きているような感じがしないから何をなすべきかと開き直り、虚勢を張ってそれで若いうちは何かと苦労をして色々と、いいことがあるのだろうが、そんなことが重なるうちには自分が朝起きて外の景色を眺めているのだという種類の感じの方が強くなって何をなすべきかでもなくなる。併し頂上の雪も大概溶け去った富士を見ているうちに自分が生まれてから何度も眺めて来て、戦争が終わる頃までは家の屋根の上に現れ、この頃は文字通りに地平線の向こうに出る富士がそうして屋根越しにではなくなるまでに言われて説かれて書かれて来たのは何なのかという考えが寅三の頭を掠めた。そういう仕儀になったのはその言われて説かれてが東部軍管区情報と違って戦争とともに消えた現象ではなくて寧ろ戦争がすんでから洪水に風の勢が加わったように一層盛になって行くのが感じられたからだった。》