群像新人賞の小説(横山悠太「吾輩ハ猫ニナル」)を読んで唖然とした。本当にこれでいいと思っているのだろうか、と。それより驚くのは、選評を読むと、あきらかに戸惑っている青山七恵以外の人が皆、ほぼ絶賛に近い感じで誉めていることだ。でも、それは本気なのか、と(阿部和重が誉めているのはとても納得できるけど)。なんでみんなもっと戸惑わないのか、と。
この小説は、とにかく最後まで読まないとダメな小説で、しかもネタバレしたらダメな小説で、ぼくは、読んでいる途中は、確かにすごく良く出来てはいるけど、古臭い前衛みたいで、しかも細部がところどころ親父ギャグを延々聞かされているみたいな感じになるところもあって、あまり良い感じはしていなかった。だけど、最後の最後に来て、「えーっ」となって一気に好きになった。すごく変な作家が出てきたものだなあ、と。それは、オチが素晴らしいからではなく、逆にあまりに下らなくて、積み上げたすべてをオチがあっさり台無しにしてしまうからだ。
(とはいえ、正直に言えば、珈琲店で休んでいこうとしたとろで「オチ」が読めてしまって、そこで「えーっ」と思って、その後は「確認作業」になってしまって読むのがもどかしかったのだが。)
この小説は、もし「オチ」がなければ、とても生真面目な、現代小説の技法を駆使して精密に構築された(主題的にも真面目な)、そして「批評的」な小説ということに、すんなりとなるのだろう。だけど、オチによって、そのすべての意味が変わってしまって、「全部ネタでした」みたいになって宙づりになる。こんなにちゃんと精密に作り上げたものを、そんな風にして台無しにできるのか、という戸惑いと驚き(しかもその壊し方が「それ」なのか、と)。もう少し丁寧な言い方をすれば、オチの部分で、それまでの展開とはまったく異質なものが作品のなかをいきなり貫入する(その予兆が少しは認められるのだけど)。そのようなオチによって物語としての意味が変わるのではなく、作品としての意味、あるいは作品世界そのものの意味がかわってしまう。
(そのような意味で、自ら壊れるために「異質なオチ」に向かって構築される小説だと言えると思う。)
「批評性のある小説」という時の、「批評性」を巧みに演じつつ、最後にはその「批評性」というものこそをひっくり返して台無しにして(踏みにじって、あるいは、飛び越して)しまうところがこの小説の挑発であり衝撃的なところで、そこに戸惑う(あるいは反発する)ことなく、すんなりと「批評性のある小説」として評価するのは違うのではないか、という気がする。つまり「批評性」が否定されている小説だとぼくは思うのだけど。