2021-01-08

●「旅する練習」(乗代雄介)のラストについて、それがアリなのか、ナシなのか、いまでもよく分からなくて、迷ったままだ。そして、そのラストから受けたショックは、まだつづいている。もっと強い言葉で言うと、このようなラストは、許されるものなのか、許されないものなのか、分からない。つまりそれは、この小説が許されないものである可能性があると、ぼくは考えている、ということだ。これは小説として出来が良いか悪いかという問題ではなく(小説としてのクオリティはまちがいなく高いだろう)、やってもいいことなのか、やってはいけないことなのか、という問題なのだ。

(やってはいけないということはないかもしれない。これをやっている作者を、信じられるのか、信じられないのか、というべきか。)

(注意。以下はネタバレを含みます。この小説は特に先入観無しで読む方がいいと思うので、未読の方はつづきを読まない方がいいと思います。)

だから、このことについて他の人がどう考えているのかとても興味がある。今月に出た文芸誌では、「群像」で金子由里奈が書評を書き、「文藝」の「文態百版」で山本貴光が触れているが、どちらもラストには触れていない。金子由里奈の書評では、ネタバレを避けるために、ラストに直接的に触れることを避けている感じがあるが、山本貴光はラストなどなかったような評価の仕方だった。他にも、ぼくが読んだ限りでは、「ラストの衝撃」についてまともに問題にしている人はほとんどいなかった。ぼくが知る限りで、このラストについてまともに受け止めていたのは、「群像」の創作合評で「現実に亜美の死があったとしても、小説のなかでは死なせないこともできたのではないか」というような発言をしていた水原涼だけだ。

ぼくはこの小説のラストにほんとうに大きなショックを受けたのだけど、他の人はすんなりと受け入れられたのだろうか。ショックは二重のもので、一つは、こんなことが起るとは…、という、出来事の唐突さに対するショックであるが、もう一つは、信頼していた作者にだまされた、というショックだ。「新人小説月評」では、やや抑え気味に「話者に対する不信」と書いたが、正確には「作者に対する不信」だ。これがミステリならば、最初からだまされることを前提に読むのだが、この小説は、読者を決してだまさないかのような書かれ方をしているのに、こんな不意打ちをされるとは思ってもみなかった、という感じになる。

この「だまされた」という感じを肯定的に受け取る理屈があるとすれば、「現実」とは我々をそのように不意打ちするものなのだ、ということだろう。作者の元に、このような「現実」がまさに不意打ちのように訪れたという事実があり、少女の、まだこの先にどこまでも広がっていくはずだった生の有り様を、「既に死んでいる人」としてではなく、あくまで「生きている人」として書き、しかしその生が「不意に絶たれてしまった」という出来事も同時に書きたかったのだとしたら…、と考えることで、「だまされた」という気持ちは消えるだろう。

とはいえ、一度「だまされた」と感じると、この小説のいたるところに仕込まれている「作為性」が浮かび上がってみえてきてしまい、この小説が「現実のまるごとを受け止めるように書かれている」とは思えなくなってくる。ある部分は作為的に物語を組み立てていて、「死」にかんしてだけ「現実」に裏打ちさせるということはアリなのだろうか、という疑問がわく。もし仮に、「死」が小説の外に現実としてあったのだとしても、このような形で小説のなかに持ち込まれた「死」は、悪い意味で「物語的に仕組まれた死」となってしまうのではないか、とも考えられる。

さらにとはいえ、もしこの小説を叙述トリックのミステリ小説のように組み立てられた小説として読むならば、非常に精密に構築された見事なものだといわざるを得ない。ラストの衝撃が、遡行的に、それまで読んできた文章たちの意味や表情を、さーっとドミノ倒しのように書き換えていく。唐突な他人の死というのは、もしかしたら、それに出会った人の記憶の意味をこのような形で塗り替えるものなのかもしれない。叙述ミステリだとは夢にも思わないで読んできた小説が実は叙述ミステリであったという「大どんでん返し」は、近い関係にある人の死に直面した人の経験を再現するために仕掛けられたものなのかもしれない。そう考えると、これはすごい小説かもしれないとも、思える。

ただし、上のような考えを、自分自身も信じ切ることはできていない。