●午後から駅前の喫茶店へ『私のいない高校』を読みに行く前の午前中、部屋で「死人を起こす」(『メルカトルかく語りき』所収)を読んだ。
麻耶雄嵩はやはり『夏と冬の奏鳴曲』が面白く、逆に言えばそれ以外はそれほどでもなく、一冊読むたびに「もう、これでいいかなあ」と思うのだが、しばらくすると気になって別の作品も読んでしまう。で、また「もう、これでいいかなあ」と思うのだが…。
すばらしく面白いとも良いとも思わないのだが、なんだろなあ、これは、という謎のようなじゃりっとした感触が残る。ぼくにとっての興味は、作中の謎やその解決ではないし、ミステリというジャンルのなかでの位置づけでもなく、人が、こういう作品を書いてしまうということ、そして、人がそれをつい読みたくなってしまうということ、そのような出来事が起こるとき、書く人や読む人のなかで何が起こっているのか、ということだ。
前半に、薄っぺらいとはいえ、それなりに切実な若い人たちの感情-関係があり、そこで一人の人物に死が訪れ、その死は彼らの感情-関係に刻み込まれる。そして後半、探偵とその助手による身勝手な利益追求の都合で、彼らの感情-関係はほとんど愚弄するように取り扱われ、いわば台無しにされる。一定の重たい実質を持った感情-関係は、口先だけの繰り言と偶然によって乱暴に整理(捏造)され、それが「回答」とされ、実質を剥奪される。読む者はその何とも言えない嫌な感じを噛みしめ、しかし同時に楽しむこととなる。
これが、センチメンタリズムとペシミズムとの接合であるならば、それはありふれているしたんに下らない。センチメンタリズムとペシミズムが接合したものとは、「嫌な大人」であり、そんな人はいくらでも存在する。この小説は、そのような感触に近づきつつも、そうではないものを含むように思う。
ある種の実質をもつ感情が、繰り言に愚弄され、事実が、語りの操作にとって代わられる。メルカトル鮎の不可謬性はあくまで語りの「操作」の問題であって、ただ不可謬であることだけが目的とされる。それは「事実」だけでなく「物語」さえ踏みにじる(「解決」のバカバカしさは、生き残った者たちに納得どころか悲劇さえ与えない)。この、不可謬であることだけを目的とした語りの操作性が、愚弄するように感情の重みと交錯する時、非常にねじくれたやり方だと言うべきなのだが、この現実の「重さ」に対して復讐するかのような心理的効果が(書く者に、読む者に)生じるのではないだろうか。
若者たちの感情-関係は、メルカトルの(自己目的化された)語りの操作によって愚弄されるのだが、その愚弄という行為そのものが、若者たちに「そのような感情」を強いる現実への復讐という効果をもつ、のではないか、と。